【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(24)】 僕の現役時代は人との出会い、環境に恵まれました。新人の時がもし鈴木啓示監督だったら僕はいないかもしれないし、どうなっていたか…。フォームを直せと言われたかもしれない。そういう意味では周りから言われなかった分、自分で考えるようになった。最初は「教えてくれよ」と思ったし、一軍に上がった時も「なんで上がったんだろう」って思ったり。でも2年目から抑えの役割で頑張れるようになった。
野茂英雄さんともいい出会いだし、生きざまというか、頑固なところ、選手として貫かなきゃいけない部分を見せてくれた気がします。どんな状況になっても最後まであきらめず、自分に自信を持って投げる。僕が先発しても中継ぎしても、ずっと言われていたことです。四球を出してピンチになりながらも最後まで投げ切る姿をずっと見てましたから。
今も仲良くさせてもらってますし、大阪に来た時には「今日ひま? めし行こうよ」って連絡くれます。今はパドレスのアドバイザーとして日米を往復してボーイズリーグなどを視察していますが、あれだけの実績を残した方なのにずっとプロの監督やコーチになっていないことを不思議に思うファンも多いでしょう。確かにマスコミ対応が苦手という部分もあるかもしれないですが、NPBから誘われても断ってるんじゃないですか。
彼の中ではプロよりも野球の底辺を広げることが頭にあるんです。プロがあるのは底辺の子供たちがいるからで、そこがいなくなったらプロが存在しなくなる可能性もある。だからボーイズの大会を開催するし、中日の根尾昂もNOMOジャパンに選出されてアメリカ遠征に行ってますよね。
近鉄一筋16年間、最後の方はケガに苦しみましたが、悔いはないです。ただ…優勝には貢献できなかった。現役時代、チームは2度優勝しました。1度目は1989年の僕がルーキーの年。一軍デビューはできたんですが、終盤は二軍で応援していました。普通に考えたら投げることはないですよ。2度目は2001年、北川博敏の代打逆転満塁サヨナラ本塁打でミラクル優勝。この時は球場には駆けつけましたが、ケガで戦力にはなれていませんでした。
そこは悔しい思いがありますし、できれば仰木彬さんがいた92年までに優勝できてたらよかった。クローザーの緊張感の中で投げてきたけど、優勝がかかった試合とか、日本シリーズで投げることはなかった。普通の緊張感ではない試合ってどうだったんだろう、とは思うことはありました。01年の日本シリーズは投げたかったですよねえ。プロは優勝を目指すのが基本で、ダメなら個人のことってなる。それが露骨じゃなく、自然にできればいいと思いますよね。
05年、僕はオリックスでコーチの道をスタートさせました。ここから複数の球団を渡り歩くことになります
☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。












