【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(29)】 2018年の10月、ヤクルトを2年で契約終了。終わった理由が「みんなと仲が悪かったから」みたいなことを言われたんです(笑い)。そんなふうに見られていたのか…。僕が思うに戸田球場と寮が離れていて、練習が終わったらみんな寮に戻って飯を食うんだけど、僕は面倒だからあまり寮に行かなかったんです。それでそう思われたのかもしれない…。よく分からないです(笑い)。

 その数日後に楽天で二軍投手コーチだった与田剛さんから電話があった。イースタンで試合の時にちょくちょく話をするくらいの関係でした。僕は野茂英雄さんにヤクルトを退団したことを伝えていたので、野茂さんが仲の良かった与田さんに連絡をしてくれていたのかもしれません。「中日の一軍監督になるから二軍コーチとして大丈夫か」と聞かれ「問題ないです」と言いました。

 でも契約の時にフタを開けてみたら一軍投手コーチだった(笑い)。近鉄で同僚だった阿波野秀幸さんも一緒に、ということでした。話が違うなと思ったけど…。僕はマンション暮らしで阿波野さんはホテル。最初は食事を一緒にしていましたよ。まあ、昔から細かい性格で、巨人のコーチを経てもっと細かくなっていました(笑い)。周囲から言葉に気をつけなきゃいけないと言われていたので、そうなのか…と。ブルペン担当とベンチ担当なんで連絡を密にしなきゃいけない。ニュアンスが違うこともあるし、僕が悪い部分もあったと思います。

 与田さんは周りのコーチに任せるタイプかな。阿波野さんを信頼していたと思いますけど、みんな途中からうまくいってない感じは…あったかもしれません。監督は周りのコーチの案を聞いて起用を決める。「これで行こう」っていうんじゃなく、みんなで話し合っていこうという。もっと監督がやりたいようにやってもよかったかもしれないですね。

 20年7月7日のヤクルト戦では1点を追う延長10回、野手を全部使い果たし、二死満塁で投手の岡田俊哉の代打に投手の三ツ間卓也を起用するミスもありました。満塁で回ってくる予測ができていなかったんでしょう。伊東勤ヘッドのミスかもしれない。打撃のいい投手の祖父江大輔もいたんですけどね。応援団が応援歌で選手を“お前呼ばわり”するのはよくないという「お前騒動」もありましたね。僕は関西が長いので全然気にしないですけど、与田さんは言葉の使い方が厳しい人だったと思います。

 中日での3年間は5位、3位、5位。残念ながらAクラスに入った20年はコロナでCS開催がなかったですが、21年はチーム防御率がリーグトップとなり、いい状態で気分よく投げさせることはできたのかなって思います。ピリピリばかりじゃ力を発揮できない。それができたのも与田さんが認めてくれたおかげだと思っています。

 ☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。