【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(19)】野茂英雄さんはよく食べるし、よく飲むし、練習もする。責任感を持って最後まで投げてくれる。1990年の1年目からタイトルを総ナメにしたのも納得です。教えてくれるというより、見て覚えてました。フォークの握りは聞いたことはあるけど、マウンドでのことは場面場面で違うし、野球の話はあまりしなかったかもしれません。

 その野茂さんも仰木彬さんが退団し、93年に鈴木啓示監督になってからはやりにくさを感じていたと思います。鈴木監督はスパイクを履いてランニングしろとか、昔の自分はこうやってきた、とか、自分がやってきたことを投手陣にやれという。

 一応、みんなやってましたけどね。当然、個々にトレーニングも考え方も違う時代なのに、昔のことを当てはめようとしていて、みんな不信感を持っていました。投手コーチの佐藤道郎さんが選手寄りで、壁になってくれていたと思います。

 野茂さんはメジャーが好きでテレビを見て選手とよく話していました。ノーラン・ライアンとか好きだったし、日米野球でもいろいろ交流はしていたと思う。鈴木監督との溝はただのきっかけで、もともとメジャー思考だったんですよ。コンディショニング担当の立花龍司さんもメジャーに詳しく、アメリカ式の新しいトレーニング法を野茂さんと取り入れて一緒にやっていたはずです。

 その立花さんも鈴木監督と合わずに93年に退団。94年の野茂さんは後半で右肩を痛め、ずっと二軍調整に入りました。そのまま8勝止まりでオフに球団と対立、任意引退という形になった。なんでメジャーに行かせてあげないのかと…。投手陣はみんな野茂さん寄りだったし、野茂さんがいなくなれば1つ枠が空いてチャンスが増えるということもあるけど、応援したい気持ちが大きかったですよ。

 小野和義さん、吉井理人さん、阿波野秀幸さん、金村義明さんらが退団し、なんでこんなことになるのか。チームにとって大事な人がいなくなることで球団への不信感もあったでしょうし、僕も親しかった人ばかりなので寂しい思いは一緒でした。

 でも、野茂さんは向こうで頑張ってほしかった。通用するわけない、なんて言われて、マスコミにバッシングされ、見返してやろうという思いは強かったでしょう。ドジャースのユニホームを着た時はうれしかったし、試合に登板したらもっとすごいでしょ。野茂さんの笑顔が最高だったし、僕も頑張ろうと思いましたもん。

 1年目からトルネード旋風を巻き起こし、13勝6敗の活躍で新人王を獲得。2年目はノーヒットノーランを含む16勝の活躍でした。結局「メジャーなんか無理だ」とか言ってた評論家の人たちが手のひらを返して拍手して、アメリカに取材に来たりするでしょ。そういう人は無視するって野茂さんは言ってましたね(笑い)。

 ☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。