【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(27)】金子も泣いていたし、みんな泣いていました。そんな僅差ないですよ。僕は…普通でした(笑い)。悔しかったけど、そこに至るまでに勝てる試合を勝てていなかったということだし、僕は1毛差も10ゲーム差も同じかな、と思うようにしていましたね。しょうがない。

 岡田彰布監督も大変だったと思います。野球に対しての持論、頭に描く野球観に僕らがついていっていたけど、監督の頭の中でのシミュレーションなんで急に何か言ってきたりしたらついていけないこともありました。こっちが準備していても想定外のこともあるし、独特な考え方なんで僕はそれにしっかり動けてなかったかもしれません。仰木彬さんの時はイメージができたんですが…。

 金子もこだわりが強い選手でした。ケガした状態で入団し徐々に力をつけていった。球種があるし、コントロールもいいし、ケガさえなければいい選手になると思っていましたよ。ただ、真っすぐがいいのに変化球ばかりになってもったいないな、とは思っていました。自分の中では真っすぐがいいとは思っていなかったんでしょう。オリックスでは群を抜いていたし、後に球界を代表する選手になったのも不思議はない。岡田さんも信頼していましたね。

 その年はリリーフで平野佳寿が72試合を投げた。病気をしてやせた時期があって先発から中継ぎに回ったんです。そこから変わった。真っすぐが速いし、フォークもある。僕はブルペン担当コーチとしてブルペンを硬い雰囲気にしないようにしていました。和気あいあいとし、緊張感を持ちすぎないよう、オンオフをきちっとしていました。やる時にはやる。平野は今もブルペンをそんな雰囲気にしてくれていると聞きますね。200セーブってすごいですよ。

 悔しさから始まった12年も巻き返しならずに最下位に終わり、岡田さんは退団。僕もコーチを外れ、再び育成担当に戻りました。そして14年、もうそろそろかな、と思っていたら11月に契約終了。学生野球資格の回復をし、何をしようかと思っていたら、12月、BCリーグ・新潟アルビレックスの全然知らないフロントの人から電話がきて「話を聞いてほしい」と…。聞くと監督をやってほしいということでした。監督かあ…。

 新潟なんで遠いけど、そういう経験もいい。準プロなので資格をもう一度、停止。NPBに送り込むような選手を育成するのも面白いかなって引き受けました。地域密着なんでスポンサー回り、あいさつ、苦手な講演なんかをやりながら初めて監督として指揮を執りました。

 ☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。