【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(9)】1997年の最終戦のダブルヘッダーを投げ、その後に先発調整のためにハワイのウインターリーグに行ったんです。ルーキーの大塚晶文が中継ぎで力をつけていたこともあって「もう抑えはいいかな」と感じ、翌年から本格的に先発に転向するつもりでいました。ウインターリーグに志願して参加し、若い選手と一緒に頑張った。翌98年のキャンプも順調だったんですが…腰の痛みと右肩の痛みを感じるようになったんです。疲労が残っていたのかもしれません。
開幕二軍スタート。僕の代わりに2年目の大塚が35セーブの大活躍でした。彼の活躍はうれしかったし「抑えは任せたぞ」と思いながらも、僕自身は本来の調子に戻せず、24試合で3勝3敗。主に中継ぎの登板で先発はシーズン終盤の4試合だけとなり、大きく期待を裏切ってしまいました。2年契約だったのにFA権も取得できず、チームにも迷惑をかけてしまった。中村紀洋、タフィ・ローズ、フィル・クラークといてまえ打線が注目された一方で打高投低となり、5位に終わった。
投手コーチの小林繁さんも僕に気を使ってくれていたと思います。リリーフをやって先発をやるに当たって話を聞いてくれたし、体調も気遣ってくれていました。きつくても、自分の中ではもう1回やらなきゃいけない。野茂英雄さんから「あきらめずにどんどん行け、自分の投球を信じろ」と言ってもらい、球種の握りを教えてもらったりしました。
99年はもう右肩、腰の不安もなく、気持ちを新たに先発として調整を続け、開幕2試合を2勝。いいスタートが切れた、と思っていた。ところが…今度は右ヒジに違和感を覚えるようになったんです。手を上げて眠っていると、ヒジが「カクン」となるようになり、その時点で靱帯が切れていたのかもしれません。
そのうちスライダーを投げた時に「電流」が走り、ごまかして投げれる状態ではなくなった。診断は「関節周囲炎」だったんですけど、触ると靱帯が動く感覚があったので診断とは違うだろうと思っていた。炎症が起きているから靱帯が切れているかはまだわからない。治まってからMRI検査を受けたらやっぱり断裂していたんです。加えて右足首も投球フォームによる捻挫状態になり、長いリハビリに入ることになりました。
足首よりも深刻なのは右ヒジ。再建手術をするか、保存療法でいくか。切れた靱帯はくっつかなくても周囲の筋肉を鍛えれば、投げれる状態になると…。なら保存療法で周囲の筋肉を鍛えて固めていこうと思いました。でも、これが思った以上に痛い。投げれるようになったとしても元に戻すのは難しいかもしれない。
当時、近鉄はレッドソックスと提携していました。僕は当時まだ症例が少なかったトミー・ジョン手術を受けることを決意し、ボストンに向かったんです。
☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。












