【長嶋清幸 ゼロの勝負師(6)】 1984年の阪急との日本シリーズは4勝3敗で広島が制し、3度目の日本一に輝いた。俺は3本塁打、10打点と活躍していて「これはMVPあるかな」と思っていた。あのころは候補者の予想グラフが新聞に載っていて、俺が一番上。おいおい、やばいぞ、俺かなって。
でも…自分の中でMVPというものには、ある“疑念”があった。一度、本塁打、打点、打率で月間トップになったことがあって、こんなに打った月はないくらい頑張った。これは月間MVP間違いないぞって思っていたら、巨人の原辰徳さんやった。俺より全部下なのになんで?って。
あとでマスコミ関係者に聞いたら巨人がその時に首位を走ってたからって…。なんだそりゃ。関係ねえじゃん。個人の成績じゃねえのかよ。プロ野球ってそんなもんか。結局、巨人が強かったらこうなるんかって、頭きたよ。ふざけるな。こんなの価値ない、もういらん。こっちから願い下げやって思った。まあ、1回も取れませんでしたけどね。
日本シリーズでは晴れてMVPに選ばれて、車をもらった。でも、その時は車を持っていたので身内にあげたよ。当時はほとんど賞金がなくて、現物支給。まいったのがサウナだった。使おうと思って家に置いたんだけど、電話ボックスみたいにでかくて、場所を取る。オブジェにしようと思ったけど、飾りにもならないから電源を1回も入れないまま人にあげたよね。あとコカ・コーラ1年分、365本。これは球団の裏方さんに配った。
いろんな意味で神がかっていたと思うよね。きれい事じゃなくてチームのすごさを感じたよ。投手陣がブーマーを封じたし、いくら俺が打ったといっても打ち合いになったら勝てなかったと思う。それくらい阪急打線は強力だった。ミーティングは野手と投手で別にやるんだけど、野手のほうは「短期決戦やし…」ってスコアラーの説明も適当に聞いていた。バッテリーは完璧に解析したわけだからね。
激しいプレーでケガもあった。一走で出塁してゲッツーつぶしに行ったら、二塁手の福原峰夫さんにスパイクで左手首の上に思いきり乗られて切れた。血が止まらなくなって縫うかどうかという話になったけど、とりあえずトレーナーにテーピングでぐるぐる巻きにしてもらって試合に出続けた。あれは福原さん、わざとだったと思う(笑い)。今も傷が残っているからね。
85年は阪神フィーバーに沸き、広島は2位。俺は打率2割9分1厘とまた3割に届かなかった。その年を最後に11年間指揮を執った古葉竹識監督が退団することになった。次期監督には山本浩二さんという流れだったけど、浩二さんが現役を続けるということで阿南準郎さんが就任した。これがまた大変な1年になった…。
☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。












