【長嶋清幸 ゼロの勝負師(3)】優勝できんかったら2位も6位も一緒。やる以上は優勝せんかったら意味がない。そのためには何をやらないといけないか、ということをいろんな人に学ばせてもらった。何をすれば勝てるかについて首脳陣、ベテラン、野手、投手関係なく、コミュニケーションを取ることが当時のカープはできていた。

 練習で話を聞きながら突き詰められる。俺がセンターで内野はショートが高橋慶彦さん、セカンドが山崎隆造さん。2人に「この打者はチャンスなら引っ張り一本になる」と聞くと「それなら僕もこっちに寄っておきます」なんてコミュニケーションできる。守る位置、それにセンターから見る捕手の達川光男さんの配球を見ると、打者のクセはすごく分かるようになっていった。まあ慶彦さんは、盗塁で相手投手のクセは絶対に教えてくれんかったけどね。

 打者心理を考えて打球方向を予測し、守備位置を取る。すると完璧に抜けるような左中間の当たりでも簡単に捕れちゃう。見ている方はなんとも思わないかもしれないから「よくあれを捕れたな」と思われるようなプレーをした方がプロなのかもしれない。今のビッグボス(日本ハム・新庄監督)の言うことも一理あるけど、自分はそこより確率の方を頭で考えていた。

 おかげでヘタクソだった守備も、1983年にはダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデン・グラブ賞)を取れるまでになった。別に俺が山本浩二さんをレフトに追いやったわけではなく、浩二さんには年齢的なこともあるし、打撃に集中してもらおうということ。寺岡孝コーチ、大下剛史コーチからずっと「ヘタは一生懸命やれば人並みになれる。その先はお前の努力だ」と言われていた。打撃はいいものを持っているから、守備を人並みにできればレギュラーで出れると…。でもその言葉の中身は、尋常じゃない練習量だった。今考えたらよく死ななかったもんだわ。

 84年は自分でも情けないくらい打撃の波が激しかった。あまりに調子が上がらず、40打席以上ヒットなし。7月の北海道遠征の際に、古葉竹識監督の部屋に行って「すいません。スタメン外してください」って言ったもん。すると「お前、何言うとんだ! 5月に1か月で4割くらい打ったやろ。そのおかげでどんだけウチが勝ったか。この先もずっとヒットが出ないことなんてない」と言ってもらえた。もう「失礼しましたッ」って部屋を出た。

 思えばそれまですごく打ったんで、相手チームも考えて配球を変えてきた。ボールも頭近くに来るようになるし、こっちも負けん気を出してムキになってしまうからよくない(笑い)。ボール球に無理に手を出して…相手の思うツボですわ。すんなりかわせればよかった。

 そして優勝が見えてきた9月の巨人戦。俺は大物投手2人を相手に大仕事をやってのけた。
 
 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。