【プロレスPLAYBACK(2000年5月13日)】5月13日は“最強”と呼ばれた全日本プロレスの元3冠ヘビー級王者・ジャンボ鶴田さん(享年49)の命日に当たり、今年で没後20年を迎える。亡くなった場所がフィリピン・マニラ市内だったため情報が錯綜し、事実関係を確認できたのは2000年5月16日午前3時だった。本紙は同16日発行の1面で鶴田さんの死を報じている。

「全日本プロレスのエースとして活躍したジャンボ鶴田さん(本名・鶴田友美)が14日未明(その後13日夜であることが判明)に肝臓がんのため入院先のマニラ市内の病院で亡くなったことが複数の関係者の証言で明らかになった。ミュンヘン五輪代表からプロ転向を果たして3冠ヘビー級、AWA世界ヘビー級などのメジャー王座を獲得。病魔と闘う姿は王者らしい堂々たるものだった。

 1992年11月、肝臓疾患のため長期欠場を強いられるも、翌年には奇跡のカムバック。スポット参戦を続けながら筑波大大学院に入学した。昨年3月には米ポートランド州立大学に客員教授として赴任したが、再度肝臓を患ったため暮れに帰国。肝臓疾患の権威とされる岐阜県内の病院に入院し、今年4月11日まで闘病生活を続けた。その後はオーストラリア・ブリスベン市内の病院に転院。さらにはドナーの関係でマニラの病院に移り、病魔と闘い続けた。

 だがマニラで肝臓移植の手術を受けたことが結果的に運命の分かれ道となった。手術中に大量出血し、通常量の倍も輸血を受けたが容体の回復には至らなかった。最後は医師に対し自ら点滴を拒否したという。そして異国の地で帰らぬ人となった。14日午後から『鶴田さん急逝か』の噂が猛スピードで関係者の間を流れ始めたが、確固たる情報はなく、生死の確認が取れない状況が続いた。

 しかし16日未明になって鶴田さんと親しい知人が本紙に対し『マニラで息を引き取りました、と遺族から連絡があった』と明かし、病院関係者も同日未明に『亡くなった』と認めたため、この時点であまりに早過ぎる死が確認された。圧倒的な強さで強烈な光を放ち続けた鶴田さん。その太陽のような笑顔はいつまでもファンの心の中に生き続けていくに違いない」(抜粋)

 遺体が遺族とともに帰国したのが17日夜。成田空港は50人もの報道陣が殺到する大騒動となった。この時に体を張って遺族を守り移動用の車へ先導したのが、当時の全日本社長・三沢光晴だった。到着ゲートの2階に身を隠して殺気立つ報道陣を見下ろしながら「人間って目の前にばっか集中しすぎると後ろなんか気がつかないもんなんだよね」とつぶやきつつ、遺族を待っていた三沢の姿を思い出す。くしくも鶴田さんの死から1か月後の6月13日に三沢は全日本を退団。ノア旗揚げに向かうことになる。(敬称略)