【還暦祭】レジェンド記者が目撃したジャイアント馬場の「後楽園ホールボヤ騒ぎ」

2022年04月15日 05時15分

葉巻をくゆらすジャイアント馬場(東スポWeb)
葉巻をくゆらすジャイアント馬場(東スポWeb)

 東京・文京区の後楽園ホールが60周年を記念して初開催するプロレス興行「還暦祭」が、2デイズ(15、16日)で行われる。1962年4月16日に「後楽園ジムナジアム」の名称でオープンした〝プロレス・格闘技の聖地〟の節目に際し、本紙OBでプロレス評論家の門馬忠雄氏(プロレス大賞選考委員)が特別寄稿。取材歴60年のレジェンド記者が目撃した〝世界の16文〟ことジャイアント馬場の「後楽園ホールボヤ騒ぎ」とは――。

 私の東京スポーツ新聞社入社は1962年3月末だった。現在のホールが「後楽園ジムナジアム」の名称で開設されたのは同年4月16日で、5階のホール記者室(正確には6階)は、いわば筆者のセカンド・オフィスである。

 後楽園ホール開設と同時進行の取材者が「還暦」を迎えるとなるも、キャリアがなせる業(わざ)、感慨深いものがある。還暦といえば、とっさに浮かんだのは馬場さんの照れくさそうな笑顔。1998年1月23日、ホールにおける「ジャイアント馬場還暦記念試合」である。

 本紙の堀内良夫写真部長(プロレス写真記者クラブ会長、当時)から赤い帽子、赤いちゃんちゃんこを贈られ、背をかがめてニッコリのシーンは忘れ難い。試合は三沢光晴、M・モスマンとトリオを組み川田利明、小橋健太(現建太)、渕正信組と6人タッグで対戦。馬場が渕をランニングネックブリーカードロップでフォールを奪っている。

 トクさん(徳光和夫アナウンサー)のマイクで「あいつら、本気で打ってきたもんね。オー、イテーッ!」。アバラ骨が浮き上がった幅広の洗濯板(胸板)はミミズ腫れ、それでも「60になってもリングに上がれるんだ!」とまんざらではなさそうな表情だった。

〝生涯現役〟が流行語となったほどの社会現象。馬場さんのトークは滋味深く、高年齢レスラー時代の魁(さきがけ)となった試合として大変意義深い。

 ホール開設当時、後楽園ボーリング場という大看板があったことを知る人は少なくなった。そのボーリング場は2階、隣接して喫茶店があった。

 試合前、例によって馬場さんを囲んでの雑談である。話に熱中しているときに突然、火災警報器のブザーである。しゃべりが中断したところで、あたりを見渡した先輩の菊池孝さん(プロレス評論家)が「馬場ちゃん、その葉巻の煙じゃないの!」という。

「本当に俺が、かよ!」。身をもじもじ、天井を見上げてはぼうぜんとした表情。ボーリング場のボヤ騒ぎが収まったのは、馬場さんが葉巻を消してから15分後のことだ。筆者には記憶から消せない出来事であった。

 もう一つ、東スポの社員ゆえにプロレスラーにいじめられた。日本プロレスと国際プロレスの1970年代前半の2団体時代である。本紙では馬場、猪木の日プロに若手レスラーの育成、激励と名目で「東スポ賞」として前座試合に賞金(大会1試合=5000円)を出していた。日プロが当時、年間200試合である。

 しかし、国際プロは無視されっぱなし。国際担当である筆者はつらかった。ある日、ホールの片隅で国際の現場責任者グレート草津に「なんでウチに東スポ賞出さないんだ。日プロとどこが違うんだ。明らかに差別じゃないか」と脅されたことがあった。192センチの草津の首絞めは、小便がちびるほど怖かった。現場記者は泣きの連続だった。

 会場には出会い(デビュー戦)と別れ(引退式)がある。格闘技のメッカ後楽園ホールは、令和マットの明日を暗示する羅針盤なのだ。

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