【プロレス蔵出し写真館】〝炎の飛龍〟藤波辰爾が10月16日、全日本プロレスの東京・大田区大会へ参戦する。息子のLEONAとのタッグで青柳優馬、亮生の兄弟タッグと対戦が決まり、親子VS兄弟という珍しいカードが実現する。

 藤波は今月17日、「HEAT UP」神奈川・川崎大会でHEAT UPユニバーサル&PWL WORLD王座の2冠を奪取。1998年に新日本プロレスでIWGPヘビー級王座を奪取して以来の戴冠だった。   

 さて、5月にデビュー50周年を迎えた藤波だが、プロレスラーを志したのはアントニオ猪木への憧れだったのは広く知られた話だろう。猪木自身も「藤波は俺のファンだった」と公言していた。

 そんな藤波が猪木と初対戦したのは、今から43年前の78年(昭和53年)5月20日の秋田大会。猪木のジャーマンスープレックスホールドに惜敗したが、翌年の対決に期待が持てる内容だった。
 
 そして、翌79年6月1日、高松での対戦を迎えると、リングに上がった藤波は左足にリングシューズを履いてはいたものの、右足には包帯が巻かれサンダル履きだった。

 実は藤波は、この試合の2日前の5月30日、大阪で行われたエル・カネックとのWWWFジュニア王座防衛戦で右足首を負傷。翌31日の愛知・春日井大会での6人タッグで、スタン・ハンセンに攻められ負傷箇所を悪化させていた。

 歩くのさえやっとの藤波が、関係者の制止を振り切ってリングには上がったのだが、見かねた猪木が左足にキックを見舞うと藤波はマットに崩れ落ちた。右足を押さえ苦悶する藤波。猪木が〝愛のムチ〟で説き伏せ、試合は藤波の不戦敗となった。
 
「残念です。レスラーになって10年、一度も休まなかったのに…」藤波の目には涙が光っていた。

 猪木と最後の対戦となったのは、88年8月8日、横浜文化体育館でのIWGP王座防衛戦。60分時間切れ引き分けとなり、試合後に猪木を長州力、そして藤波を越中詩郎が肩車してお互いが手を取り合うという感動的なフィナーレを演出し、印象深いものとなった。

 しかし、猪木VS藤波の名勝負として今でも記憶に残っているのは、85年9月19日に東京体育館で行われた一戦だ。
 
 この当時の新日本は、大量離脱で選手層が手薄になり、キワモノだったマシーン軍団を登場させ、アンドレ・ザ・ジャイアントにまでマスクをかぶらせジャイアント・マシンに変身させた。レフェリーの不可解判定が横行するなど、ストロングスタイルを標榜していた新日本の人気は低迷。新日本プロレス存亡の危機ともささやかれた。

 そんな時期に頂上決戦ともいうべき猪木VS藤波戦が決定。本紙は前日の18日、宿泊先の福岡で将棋で対局する特写をお願いした。24時間後の決戦に向けてのあおり写真だ。

 試合は、真っ向勝負で30分を超える熱戦となり、藤波のサソリ固めからの足4の字固めを5分以上も耐える猪木。コーナーで雪崩式ブレーンバスターを狙う藤波にパンチで反撃。猪木がジャーマンを繰り出せば、ドラゴンスープレックスで応戦する藤波。そして、執拗に卍固めで勝負を決めようとする猪木に対し藤波はギブアップせず、特別レフェリーのルー・テーズが試合を止めた。

「男が涙を流すなんて、という人もいるだろうが自分はかまわない。やはり自分がやらなければいけない。それが新日本に残った自分の使命だと思う」

 藤波は胸中を吐露した。まさに、新日本の原点を見せてくれた大一番だった(敬称略)。