【越智正典 ネット裏】2022年6月25日は長嶋茂雄の、あの劇的な天覧ホームランから63年である。数えてみて驚いている。その1959年3月2日、甲子園球場で藤村富美男の引退記念試合、阪神―巨人戦が挙行された。長嶋茂雄は千葉県印旛郡臼井町臼井小学校のときからこの猛将が大好きだった。三塁ベンチ前にナインとともに整列し、気をつけをしていた。

 巨人監督水原茂が本塁ベース前に用意されていたスタンドマイクの前に歩を進めた。ワイヤレスマイクはまだない。当時、ヒーローインタビューの担当アナウンサーは長く重いコードを引っ張って走っている…。

「阪神電鉄並びに球団幹部に申し上げます。かのニューヨークのヤンキー・スタジアムのセンター奥深く、監督ミラー・ハギンズ、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグの胸像があるがごとく、甲子園球場に藤村富美男の胸像を建立されんことを」

 切々、堂々たる惜別の辞であった。

 ミスター・タイガース藤村富美男。34年、大正中学改め呉港中学全国優勝投手。決勝2対0。川上哲治、吉原正喜の熊本工業。ご存じのように当時、中等学校は5年制だったので夏の全国大会出場4回。35年12月10日、結団の大阪タイガースに入団。39~42年、兵役だったが、出場1558試合、本塁打王3回、打点王5回。49年、46本塁打、142打点でMVP。50年、3割6分2厘で首位打者、年度全140試合に出場して191安打を叩き出している。

 藤村がスタンドを埋めたお客さんに深々と一礼。よくマイクに乗る渋い声だが、いつもより低かった。
「ファンの皆様。わがタイガースに時をあたえられんことを」

 悲痛だった。2リーグ分立の49年秋、別当薫、土井垣武ら阪神の主力選手がパ・リーグの新チーム毎日オリオンズに去っていったのである。

 引退記念試合は2回裏、55年に岡山・関西高校から入団していた浅越桂一が藤村から贈られた長さ91センチ、愛用の「物干しざお」バットで左翼席に弾丸ライナーの本塁打を打ち込んだ。三塁手だっただけにお客さんは大喜び。糸ヘン関係のギョーカイの朝晩のあいさつのコトバを借りると「頼りにしてまっせ!」である。
 4回表、長嶋茂雄が左翼席の同じところに打ち返した。このとき、大阪ミナミの千日前デパートが開店1周年を迎えていたが、長嶋茂雄の巨人入団2年目の“営業開始”である。

 一気に春が来た。

 春はセンバツからと言われているが、4月1日に開会した第31回のセンバツの入場行進曲は「皇太子のタンゴ」であった。

 58年11月27日「皇太子妃決定、正田美智子さん」発表されると日本じゅうが沸き立った。美智子さんが「ご清潔でご誠実で」と述べられると誰もがうれしくなった。ご成婚は59年4月10日である。

 翌4月11日セ・リーグ開幕。降雨中止試合もあったが、開幕3連戦が終わり、第2節に入った4月14日、阪神の新人村山実が甲子園球場で国鉄の金田正一と投げあって勝った。3対0。村山が阪神の期待だった。大学野球の関係者ももう一度驚嘆していた。=敬称略=