【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(8)】今、「ミスタードラゴンズ」といえば立浪監督を思い浮かべる人がほとんどだろう。だが俺が中日に入った頃のミスタードラゴンズは高木守道さんだった。走攻守3拍子そろった「日本球界最高の二塁手」。正確無比なバックトスはまさにプロの技で、ドラゴンズの顔だった。
その高木さんが80年のシーズンで引退し、セカンドのポジションが空いた。高木さんの後釜として新しくセカンドのレギュラー候補となったのがオレと田野倉利男さんだった。俺は外野専門でアマチュア時代も含めてセカンドをやったことはほとんどなかったが「ゲームに出られるんだったらやってやろう」と前向きに考えていた。
キャンプでは一軍作戦守備コーチに就任した高木さんが俺と田野倉さんにつきっきりでセカンドの守備を教えてくれたのだが、これがとにかくきつかった。高木さんは「内野手は打球を数多く捕らないとうまくならない」という考えだったからノックを始めると1時間半ぐらい止まらない。毎日ノック、ノック、ノック…。本当に死ぬかと思った。夜になると低い体勢で捕球できるように股関節を柔らかくするための運動。まさにあのときのキャンプは地獄だったね。
ところが高木さんにノックの雨を浴びせられていると、なぜか守備だけでなくバッティングの調子も良くなっていった。バットをしっかり振り切れてボールも飛んでいく。ノックを何本も受けていたことで体のキレが良くなりそれが打撃面でもプラスに働いたみたいだった。さらにダッシュ力がついて足まで速くなった実感があった。今、中日でコーチをしている荒木雅博や森野将彦は落合監督からキャンプのときにすごい量の“オレ流ノック”を受けてトッププレーヤーに成長したが、それと同じようなことがあのときの俺にも起こっていたのだと思う。
開幕の巨人戦では途中から2イニングだけ二塁の守備についたが、結局セカンドを守ったのはその1試合だけ。それまでサードは大島康徳さんが守っていたが、この年から指揮を執った近藤貞雄監督は6月頃から大島さんをレフトへ回し、俺をスタメン・サードで使うことが多くなっていった。“高木ノック”によって体がキレキレとなった俺はシーズン中も好調をキープ。規定打席には達しなかったが打率2割9分2厘、4本塁打、29打点という成績を残し、プロでやっていける自信がついてきた。
「来季は不動のレギュラーに」。そう誓った俺はある日、当時つきあっていた彼女を連れて先輩の自宅へ向かった。「結婚しようと思います。つきましては仲人をやっていただけませんか」。そうお願いしたのは大学の先輩でもあるドラゴンズのエース・星野仙一さんだった。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












