【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(1)】ドラフト外で1978年に入団してから2014年に退団するまで中日ドラゴンズ一筋のプロ野球人生を送ってきたのが豊田誠佑氏(66)だ。選手、コーチ、スカウト、そして昇竜館館長として36年にわたってチームを支えてきた。「ドラゴンズに入って本当に良かった」という豊田氏が自らの野球人生、そして中日の歴史を彩ってきた監督や選手たちの素顔や裏話を語り尽くす。

 中日の独身寮「昇竜館」の館長を務めていた俺は2014年のシーズン終盤に突然、球団代表から事務所に呼び出された。嫌な予感がした。

 前年(13年)10月に元監督の落合博満さんが中日のGMに就任。チーム内にはリストラとコストカットの嵐が吹き荒れ、それまでアットホームだったドラゴンズの雰囲気は大きく変わっていった。13年オフには井端弘和が80%以上のダウン提示を突き付けられたことをきっかけに退団。中日の黄金時代をつくった大功労者は巨人へと去って行った。14年オフには1年目のルーキーに対しても限度額いっぱいの25%ダウン提示がされるほどでスタッフの中にも契約を打ち切られる者が何人かいた。

 予感は当たった。「来年は契約しません」。クビの宣告だった。

「鶴の一声ですか?」

「そうじゃない」と代表は答えたが、“星野仙一派”と見られている俺にリストラの矛先が向けられたというのがそのときの率直な思いだった。

 代表との話し合いを終えた後、俺は球団社長のもとへ向かった。「36年間、頑張ってきてゴミくずのように捨てるんですか。選手やOB、スタッフを大事にしないようなチームは勝てませんよ」。そう捨てゼリフを吐いて球団事務所を後にした。新聞販売店にも電話した。「中日スポーツを取るのはもうやめる。日刊スポーツに替えるから」

 今にしてみれば大人げのない対応だったと思う。代表にも社長にも立場がある。誰だってクビを切るのは嫌だろう。でもあのときの俺はドラゴンズとの関係を断ち切られることがとにかくショックだった。悔しくてたまらなかった。それだけドラゴンズのことが大好きだった。

 1978年にドラフト外で入団してから選手として10年プレーしその後コーチを10年、スカウトを10年務めた。2008年からは昇竜館館長となって若い選手たちの世話をしてきた。自分の人生は常にドラゴンズと共にあっただけに退団を通告されたときには正直、心の整理がつかなかった。

 それでもやはり36年間お世話になった中日球団には感謝している。読者の皆さんにはこれは絶対に伝えたい。中日ドラゴンズは本当に素晴らしい球団だ。名古屋の人が熱く応援してくれるし、選手もファンの気持ちに応えようと一生懸命プレーしている。名古屋の人たちとチームの間には何とも言えない一体感がある。今、俺は名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」の主人として働いているが、店に来るお客さんもみんなドラゴンズのことが大好きだ。36年間も最高の球団で働かせてもらったからこそ、自分が体験してきたドラゴンズでのプロ野球人生についてお伝えできればと思っている。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。