【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(6)】星野監督の2年目に中日に入団してきたのが、後の“ミスタードラゴンズ”となる立浪和義です。主将としてPL学園を春夏連覇に導いた高校球界のスーパースターでしたが、実績通り、ものすごい選手でした。

 1988年のキャンプの第2クールで星野監督は野手を全員守備位置に就けてノックをさせたのですが、誰が見てもまだ高校の卒業式も終えていない立浪の動きがプロで何年もプレーしている選手たちより桁違いにいいのです。

 足さばきもハンドリングも素晴らしいのですが、何より肩がいい。一塁への送球がホップするような感じで一塁手のミットに吸い込まれていく。私はプロ野球の世界を約35年見てきましたが、ラインを引くようなボールを投げるのはドラゴンズの中でも今中、川上憲伸、浅尾らほんの数人の投手だけでした。しかし立浪は野手にもかかわらず超一流の投手たちに負けないようなスピンがかかって伸びのあるボールを投げていたのです。

 それを見て星野監督もほれ込んだんでしょうね。当時、ショートのレギュラーだったうーやん(宇野勝)を呼んで「セカンドに回れ」とコンバートさせてしまった。でもそれも当然でした。立浪の守備は見ているだけで楽しくなる。立浪が守備練習を始めると記者もみんな集まってきて注目していましたから。

 その年のキャンプは前半を沖縄、後半を米国・フロリダ州のベロビーチで行いました。ベロビーチキャンプの終盤に3Aのチームと練習試合をしたのですが、これが悲劇を生みました。相手チームの打者が放った打球がふらふらと上がり、ちょうどサード、ショート、レフトの間くらいへポトリ。足が速かった立浪は猛ダッシュで頭からダイビングしてキャッチしようとしたのですが、その際に右肩を強打。亜脱臼してしまったのです。

 日本に帰国した後も立浪は「大丈夫です」と言って注射やテーピングをしながらオープン戦も休まず出場したのですが、これが間違いでした。前にダッシュして勢いで投げるボールはよかったのですが、三遊間のゴロを踏ん張って投げるボールは以前のようなラインを引くような感じではなくなってしまったのです。

 それでも立浪はルーキーイヤーの88年、シーズン通して活躍し、新人王とゴールデン・グラブ賞を獲得。6年ぶりのリーグ優勝に貢献したのだから本当にすごい選手でした。でも最初の年に肩を痛めたこともあって、立浪がショートでレギュラーを張ったのは88年から91年までの4年間だけで、92年からはセカンドにコンバート。その後、サードや外野もやったりしました。ちなみに立浪はショートで1回、セカンドで3回、サードで1回ゴールデン・グラブ賞を獲得。3つのポジションでゴールデン・グラブ賞に輝いたのは立浪だけです。

 今、ドラゴンズのショートは京田が守っています。京田の守備力はリーグでもトップクラスで肩も強いですが、立浪の強肩は京田よりもさらに上のレベルでした。それだけにベロビーチでのあのアクシデントさえなければ、立浪は日本プロ野球史上ナンバーワンのショートになっていたのではないか。今でもたまにそんなことを考える時があるのです。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2005年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。