【藤田太陽「ライジング・サン」(5)】中学に入ってもプロの片鱗も見せてはいなかった僕は、雑用やランニング、声出しばかりの1年生を終えてもレギュラーにはなれませんでした。2年生になってもほぼ試合には出られていないかもしれないです。このへんの記憶が曖昧で、メンバーには入っていたのかもしれないですけど、このころのことをはっきりとは覚えていません。

 この当時も投手ではなく外野手でした。たまに投手をやらせてもらったりはするんですが、四球を1個出したらすぐ外されるみたいな扱いでした。ある程度、体罰もあった時代なので、無駄な四球を出しては、はい殴られなさいという感じでしたね。

 そんな感じだったので、僕の中で野球に対する情熱も冷めていたのかもしれません。中2の時、一度だけなのですが父に「もう野球辞めるわ。もう一度、柔道やるわ。そっちの方が好きなんで」と言ったんです。でも、父はその時「そうか」しか言わなかったんです。それで3日くらい考えました。

 いや、ちょっとこれで辞めるのか…違うよな。そこで自分なりに考えて、我慢して野球を続けるという決断をしました。母が「あんた辞めんのはいいけど、やり尽くしたの? 100%やったんか? 父さんは『そうか』と言ったかもしれんけど、お母さんは『そうかじゃない』と思うよ」と諭してくれました。

 僕はお母さんっ子だったので、その言葉を素直に聞き入れることができました。そこからですかね。自分でも考えて、野球の練習に取り組むようになったのは。それまでは何となく部活の野球をただやっていた感覚だったんですが、何となく野球ではなくなった。

 当時は秋田には、いわゆる硬式野球のシニアのチームが1つしかなかったんです。どちらかというと中学校にある、軟式の野球部の方がレベルが高かったですね。なので環境を変えてシニアで野球をというふうにもなりませんでした。僕自身は中学の時は目立った存在ではなかったとはずっと思ってますが、ようやく3年生になってショートでレギュラーになることができました。

 6番・ショートです。中途半端でしょ? ただ、このころには自分なりにセールスポイントも分かっていて、違う角度で野球を楽しんでいました。守備位置を今の強豪校の高校野球チームくらい深く守って、強肩を猛アピールする快楽を見つけたんです。

 三遊間の深い位置から一塁に送球する。その球筋を見て高校のスカウトの方々が「なんじゃコラ」となってくれるのが楽しみでした。当時の僕のとりえといえばそれだけだったですから。なんかもう、どこかで割り切っていたんです。自分の強みは肩しかない。大して打てるわけでもないし、打つのは好きでしたけど。捕球技術もそこまでではない。でも、肩だけは誰が見ても「なんじゃコラ」だったんです。それが快感になっていました。

 そして、その肩をアピールしたことで強豪校の目にも留まるようになっていったんです。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。