【平成球界裏面史 平成のカープ編(2)】最近の広島というと、緒方孝市監督時代の平成28年(2016年)~30年の3連覇ばかりが評価されている。が、その前に5年かけて〝土台〟を築いた野村謙二郎監督も、そろそろ見直されてもいいころではないか。

 監督就任1年目の平成22年、私が野村にインタビューした時、現役時代の走塁が話題になった。平成6年9月20日の広島市民球場、優勝を争っていた巨人戦で野村が二塁から本塁へ猛然と突入。捕手・村田真一をタックルで吹っ飛ばし、思い切りガッツポーズを取って吠えたのである。

「あのタックルもガッツポーズも、自然と出たんですよ。ああいうこと、事前に考えてできる性格じゃないですから。いまの選手にも、あんな熱いプレーを見せてほしい」

 当時はまだコリジョンルールもなかった。そう意気込む野村について、「退場処分にならなきゃええけど」と気を揉んでいたのが、ヘッド兼投手コーチの大野豊である。

「監督は現役時代から、乱闘になったら真っ先に飛び出していくタイプやから。そういうときは俺がすぐ止めに入らんと」

 大野の心配をよそに、野村は何度か退場処分を受けた。波紋を広げたのは平成23年6月26日、中日戦でアウトの判定に激高し、両手で一塁塁審を突き飛ばした一件。退場に加えて、2試合の出場停止処分も追加された。

 ところが、問題の試合は広島が2―0で勝利。前田智徳が「あの退場でベンチの呼吸がひとつになった」と言えば、石井琢朗も「監督が強いメッセージを残してくれた」と発言。弱体化していたカープに、しっかり闘志を植え付けていたのだ。

 野村はすぐに熱くなる一方、選手が不振に陥ると我慢強くマンツーマンで指導していた。とくにブラッド・エルドレッドに対し「ステイバック(タメをつくれ)!」と口酸っぱくして繰り返していた姿が忘れ難い。

 しかし、チームは平成24年までBクラスに低迷。本拠地での公式戦最終戦で野村が挨拶に立つと、「謝れ!」「辞めろ!」と罵声が浴びせられた。

 そうした中、平成25年は16年ぶりのAクラス3位に食い込む。球団初進出のCSも、最終ステージの巨人戦まで大健闘。だが、野村が辞意を固めていたため、ここで一騒動持ち上がった。

「今年は僕にとって集大成の年だった。結果如何にかかわらず、最初から辞めるつもりでした」

 というのが野村の言い分。CSから一夜明けた10月19日朝、チームが東京から広島に戻るや、松田元オーナーは野村を広島市内のホテルに呼んで慰留に乗り出した。

 この時、水面下では次期候補として当時打撃コーチの緒方、佐々岡真司・現監督、内野守備走塁コーチとなった石井の名前が浮上している。報道陣が固唾を呑んで見守っていた中、松田に約1時間半も説得された野村がついに翻意。一転して1年続投が決まった。

「(オーナーには)説教されました。いろんな話をされて『おまえは頭が固い』と怒られました」

 平成26年、野村は2年連続3位を置き土産に退団。平成27年から緒方が監督に昇格すると同時に、地元放送局の解説者だった佐々岡も二軍投手コーチとして復帰している。将来の監督候補として戻されたことは明らかだった。

「それは緒方も最初から感じていたはずや。ササ(佐々岡)を二軍からスタートさせたのは、緒方がいらん気を回さんようにという会社(球団)の配慮だったんじゃろ」 

 とは、さるカープOBの解説である。