【平成球界裏面史・平成のカープ編(6)】「本当ならカープが勝っとったはず」――。当時は現役選手だった広島OBと振り返るたび、いつもそういう話になるのが平成3年(1991年)の日本シリーズである。
戦前の予想は広島絶対不利だった。相手は前年巨人を4連勝で下し、いまのソフトバンク同様に絶対的王者として君臨していた西武。しかも、広島はその西武と初対戦した昭和61年(86年)、1引き分け3連勝から4連敗して敗れていた。
西武・森祇晶監督は、広島の正捕手・達川光男をしきりに挑発した。
「前回もそうだったように、今回も達川の頭脳との勝負だ。ウチの打者はあのリードに裏をかかれないようにしないと」
これを伝え聞いた達川はいたく憤慨していた。
「あれはホメ殺しよ。森さんは自分が育てた伊東(勤)が上という自信を持っとるんじゃろ。確かに、伊東はええ捕手よ。リードはワシとええ勝負かもしれんが、肩と打撃は伊東が上。顔と年俸でもワシが負けとるわ」
第1戦の前、そう言い募る達川をなだめるように、西田真二が言った。
「西武に勝ったらMVPは達川さんですね。ウン百万円賞金もろうたら、少し分けてくださいよ」
「何? じゃあ、おまえがMVPになったらワシにカネくれるんか?」
今時のカープとは随分と違う雰囲気の中で始まった第1戦は3―11と大敗である。レギュラーシーズンMVP、沢村賞、最多勝、最優秀防御率など5冠に輝いたエース佐々岡真司(現監督)を立てながらこの結果だ。今年と同様、記者席やスタンドからは「またセの4連敗か」という声もあがっていた。
ところが、第2戦先発の川口和久は「かえってやる気が出た」と、のちにこう明かしている。
「佐々岡のKOはチームとしてもある程度、予想できていた。シーズンのフル回転でエネルギーを使い切った直後だから。当時、シリーズは〝第2戦重視〟という考え方が主流だったんで、よし、やってやろうと思った」
川口はこの年、改良型のカットボールを持ち球に加えていた。オープン戦で達川に「こんなもん使えんわい」とダメ出しされ、意地になって練習を重ねた新球だ。この球を生かして8回3安打2失点と好投し、第2戦は首尾よく4―2で快勝した。
本拠地に移ってからの第3戦は0―1で敗れたものの、そこから2連勝して西武より先に王手をかけた。白眉は川口が中3日で先発した第5戦、3点をリードしていた8回二死満塁で、打席には秋山幸二。ここで達川がカットボールのサインを出し、川口が思い切り腕を振って、見事に見逃し三振に打ち取ったのだ。
この後、川口は中2日で第7戦に先発するはずだった。予定通りにいけば、第6戦を落としたとしても、広島が日本一となった可能性は高い。
しかし、山本浩二監督は第6戦で決められればと考えて、川口をベンチ入りさせる。そして、1―1の6回二死満塁、山本は金石昭人から川口に交代。これが裏目に出て、代打・鈴木康友に2点タイムリーを打たれて万事休すだ。
このとき、川口は肩がバリバリに張っており、スタッフにサロメチールを塗ってもらって投げていた。ベンチ裏では大下剛史ヘッドコーチが川口投入に反対している。が、最後は勝ちを焦った山本が押し切ったという。第6戦で1―6と大敗した広島は、ショックを引きずって第7戦も1―7とまたもや完敗。手が届きかけていた日本一をさらわれたのだった。
このシリーズは、のちに監督となった野村謙二郎、緒方孝市、佐々岡が選手として出場した唯一のシリーズでもある。佐々岡は王者西武に善戦したことに自信を深め、「もっと頑張れば日本一になれると思った」と話している。いまのセ球団の選手にも聞かせたいセリフだ。(赤坂英一)=続く=












