巨人軍の伝統はこうして始まった

2019年12月28日 11時00分

故正力松太郎氏の像と遺訓

【ネット裏・越智正典】12月26日は巨人軍「大日本東京野球倶楽部」の結団記念日である。

 昭和9年12月26日、丸の内の工業倶楽部で創立総会。株主は53人。夜は東京会館で披露宴。ONはまだ生まれていない。川上哲治は熊本工業の左腕。この年の夏の甲子園決勝で藤村富美男の呉港中学に0対2。準優勝。

 かねてアメリカに負けない野球をと、会合を重ねていた日米野球の全日本監督早大捕手市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惚太郎の職業野球創立の願いに肯いた読売新聞社社長正力松太郎の動きは果断だった。

 6月9日第一回発起人会。創立委員長に大隈重信の令息大隈信常をむかえ、11日には銀座教会前の菊正ビルに事務所開き。はじめ日比谷の三信ビルに入ろうとしたが、サンシン、三振はエンギが悪いと取りやめた。ホントは家賃が高かったのだ。が、首席創立委員安楽兼長が事務所に5本も電話を引いたのは見事である。

 市岡のチーム編成は闘志の名二塁手三原脩が契約第1号、月給170円。2号が遊撃手、セネタースに転じて近代二塁の守りを拓く苅田久徳、月給150円。二遊間を固める。初代三冠王となる中島治康、月給120円。

 巨人軍の勝つためのノウハウ、伝統は日米野球に始まっている。三塁手水原茂は伝えた。

「ベーブ・ルースはユニホームを入れたバッグは必ず自分で持っていた。グラブやバットは忘れても遠征した町で買えるが、ヤンキースのユニホームは買えないと言って…」。シベリア抑留から帰還した水原は昭和24年7月24日、巨人大映の後楽園球場でファンに挨拶。翌朝、多摩川の河原でキャッチボール。お相手は松田清。秋に監督に指名されるとは思ってもいない。

 昭和13年高松商業から入団した楠安夫は、びっくりした。

「先輩たちは守備につくと『ゲンナンバーワン』。凄い叫びです。なんのことかわかりませんでしたが、そのうちに『ゲット! ナンバーワン』と叫んでいるのがわかりました」。市岡が折々に叱咤激励していたのだ。

「勝つためにはなんとしても先頭打者を討ち取らなければならない」。この教えを最もよく貫いたのは森祇晶である。

 王貞治は“ゲンびっくり組”ではないがアウトカウントを叫んだ。投手、ナイン、そして自分に向かって必ず3度。アウトカウントによって次のプレーが違う。全日本捕手久慈次郎はみんなに呼びかけた。「強くなるためにもっと野球を好きになろうよ」。

 昭和32年秋、巨人入団を決めた長嶋茂雄は放送局にひっぱりだこ。司会三木鮎郎のニッポン放送の「トンチンカンゲーム」にも出演。今日は寒いですねと話しかけられたら、暑くてかないませんと答えると次に進める。三木が聞いた。「野球が好きですか」。長嶋は答えた。「ハイ、大好きです」。ホールのお客さんは失格した長嶋に盛大な拍手を送った。今年の日本シリーズで0勝4敗の巨人。往時、丸子橋からガス橋折り返しで多摩川の土堤を朝晩走っていた男たちの思いにも続け…である。

 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)