【球界平成裏面史(53) ヤ軍・伊良部の巻(3)】最悪のファーストコンタクトであった。平成9年(1997年)8月24日、シアトルにあるマリナーズの本拠地キングドーム(当時)で試合前の練習中、伊良部はベンチにいた記者の隣にいきなりやってくると約10分間にわたって日本メディアに対する不満をぶちまけた。

「あなたたちは人種差別とかの1万倍ひどいことをしてきた。1万倍! 分かる? 家がどこにあるだとか、あいつの女がどこの誰だとかって人のことつけ回したりするのがあんたたち。新しい国でこれから頑張ろうと必死でやっている者の足を引っ張ったり、ジャマすることしかあんたらにはできないんだよ!」

 あまりのけんまくにトーリ監督をはじめ、デレク・ジーター、ティノ・マルティネスらヤンキースのスター選手たちも皆、心配そうにこちらを見ている。ちなみに記者はこの数日前に米国に来たばかりで、伊良部ときちんと話をしたのもこのときが初めて。翌日の東スポ1面にはベンチで一触即発状態にある伊良部と記者の写真とともに「和解全面拒否」の大見出しが躍った。

 さらに1週間後の9月1日、フィラデルフィアでのフィリーズ戦で伊良部は4回途中5失点で降板した。KOされたのがよほど悔しかったのだろう。ベンチ裏で消火器を振り回したり、椅子を投げつけたりと大暴れ。その剛腕から放たれた椅子は天井に突き刺さり、あまりの暴れっぷりにチームメートさえも顔面蒼白となった。

 試合後の記者会見を拒否しただけでなく、伊良部はドアを右手で思いきり殴りつけ、日本の報道陣をにらみつけながら球場を後にした。正直、このときは「伊良部が心を開いてくれることは絶対にないだろうな」というのが率直な感想であった。

 ところが2年後の99年、状況は一変する。ヤンキー・スタジアムでタイガース戦前に前年の世界一記念のチャンピオンリング授与式が行われた4月11日のことだ。日本人として初めてMLBのチャンピオンリングを手にした伊良部はニッコニコ。「すごいリングだね」。そう声を掛けると伊良部は子供のような笑顔を浮かべながら「最高ですよ」とリングをかざして見せてくれた。

 メジャー移籍2年目の前年は13勝、この年も11勝と最も脂が乗っていた時期でもあった。実績を重ねていくにつれて余裕も出てきたのだろう。このころから伊良部は日本メディアとも徐々に友好的な関係になっていった。今でも忘れられない衝撃的な話を聞いたのも、この年だった。

「僕ね、こっち(米国)に来てから全然練習してないんですよ。それでもこれだけできるってことは、やっぱり天才なのかな」

 開幕前、オーナーのジョージ・スタインブレナー氏から「太ったヒキガエル」とやゆされたことなど全く気にすることなく豪快に笑う伊良部を見て「この男は本当にすごい」とひそかに感心、感動してしまった。天から授けられた圧倒的な才能。練習しなくてもメジャーで2桁勝てる日本人投手など、もう二度と出てこないのではないか。

 2002年9月、当時レンジャーズに所属していた伊良部とテキサスで久しぶりに再会したときには、こんなことも言っていた。

「日本のメディアに言いたいことがあるんです。日本の選手が米国に行く場合“メジャーに挑戦”と書くでしょ。あれはおかしい。僕が米国に来るとき、挑戦という意識はなかった。だって(米国でも)できると思ったもん。僕は日本で投げていたとき10~15勝の投手だったけど、ニューヨークに行ったときもそんなもんだったし。何で日本のメディアはメジャーの方を見上げた書き方をするんだろうか」

 その言葉からは日本のプロ野球に対する愛情と誇りのようなものが感じられた。とがっている部分も含めて、とにかく魅力的だった不世出の天才投手。もっともっと話を聞かせてもらいたかった。