大豊さん 本紙番記者だけが知る「一本気秘話」

2015年01月21日 07時10分

1994年のキャンプで王氏(左)から打撃指導を受ける大豊さん

 台湾出身で中日、阪神両球団の4番打者を務めた大豊泰昭氏(本名・陳大豊)が18日、急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で死去した。51歳だった。1994年には38本塁打、107打点で2冠に輝いた。2002年の引退後は中国料理店を開業。本紙では08年11月から09年3月まで自伝「八転び七起き」を連載した。その後、急性骨髄性白血病に見舞われ、2度克服したが、一昨年に再々発していた。大豊氏の数々のエピソード、闘病生活中の熱い言葉を公開する。

 ナゴヤ球場一塁側ベンチ裏の大鏡前。ドラゴンズの背番号55姿の大豊氏が1本足打法の構えでよく立っていたのを思い出す。王貞治氏に憧れて、台湾から日本にやってきた野球を愛する男。その取り組む姿勢はハンパではなかった。本格的に1本足打法に挑戦した93年、沖縄のホテルで王氏に直接指導を受け「1本足で立っている感覚があるうちはダメだ」と言われ、時間さえあれば1本足の姿勢を取っていた。「トイレで小便する時も1本足だった。便器に触れないようにしながらね」とも話していた。背番号「55」は、王氏の55本塁打に引っ掛けたもの。「55」は後に巨人入りした松井秀喜氏の代名詞みたいになったが、“元祖”は大豊氏だ。

 熱い性格だった。常に真剣勝負。手を抜くことが大嫌いだった。怒りのスイッチが入った時はすさまじかった。ある年のオーストラリアキャンプでは、あるコーチの指示にぶち切れ「今から、殴りに行ってくる」と記者に予告したので、こちらが慌てて「そんなことをしたら大問題になる。我慢しろよ」となだめたこともあったほど。その後、ファンの差別的なヤジに対してスタンドまで駆け上がろうとしたり、トラブル、誤解もあったが、すべて一本気で超真面目ゆえだった。

 話しだすと止まらなかった。記者と大豊氏は同い年だが、初めて取材した時の彼は名古屋商大の選手。そこから中日、阪神の現役時代、引退後を含め、どれくらいの時間、話を聞いただろうか。金沢の中日宿舎ではナイター後のロビーで午前4時すぎまで。こちらが切り上げようとしても、ホテルが照明を落としてからも話し続け、翌日、球団関係者から「ウチの選手をあんな遅い時間まで引っ張り出すな」と怒られたのも懐かしい。本紙で連載した大豊氏の自伝「八転び七起き」の打ち合わせは当時、名古屋市内で経営していた中国料理店「大豊飯店」の事務所で6時間以上に及んだ。

 こんなこともあった。大豊氏が若かりしころ、浜松のホテルでお茶を飲みながら「今、気になることは何?」という話になった。すると彼は「髪の毛かな」とポツリ。「なんでだよ。まだ大丈夫だろ」と記者は笑いながら返し「大豊、若ハゲの恐怖」との見出しの記事を書いたところ、しばらく口を利いてもらえなくなった。すでにカツラを着けていたからで、知らなかったとはいえ、すごく傷つけてしまった。それでも“取材拒否期間”はそう長くなく、いつもの大豊氏に戻ってくれた。「八転び七起き」の打ち合わせでも「カツラの話? 大丈夫だよ。それも入れるよ。その方がいいでしょ」と笑い飛ばしていたものだ。

 連載終了後、まさかの白血病との闘いが始まったが、大豊氏は常に前向きだった。「これも神様が俺に与えた試練だと思う。大豊、これを乗り越えなさいってね」と言っていた。しかし、その試練は何度も…。克服、再発、妹の骨髄移植で克服…とその状態は目まぐるしかった。そんな中「大豊飯店」を閉め、岐阜県海津市内に「大豊ちゃん」をオープンし、店にも出て、忙しい日々も送り、その間に本紙にも阪神への提言、メジャーから虎入りした福留へのエールなどを寄稿。一昨年に白血病が再々発し、体力が急激に低下した中でも昨年、中日・山本昌が最年長勝利の日本記録を達成した際にはエピソードなどを明かしてくれた。昨年9月に「治療専念のために店に出るのをやめるけど必ず戻る」と誓っていた。

「今の自分があるのは野球のおかげ。野球に感謝しなければいけない」とよく言っていた。所属した中日、阪神のことは特に気にしていた。愛情表現の裏返しで、あえて厳しい言葉を口にし、谷繁中日について熱く語ったことも…。病気と闘いながらも野球のことには現役時代と同じで話が止まらなかった。自ら「俺には大豊理論がある」と言い「広島カープのように育成面をしっかりしなければいけない」「大事なのは二軍。俺だったら、やりたいことがある」…。その一方で「掛布さんはいいよなぁ…、また選手を指導できて、俺も元気だったら…。俺みたいな頑固な人間には声がかからないかもしれないけど…」としみじみ話したり…。

 大豊氏とは昨年12月25日、電話で話したのが最後になった。「俺、また入院しちゃったんだ。1月までは入院しなければいけないみたい。無菌室に入っているから面会は断っている。だから病院には来なくていいよ」。記者が「体を治してウチで評論をやってよ」と言うと「うん、そうだね。俺も野球について自分なりに考えていることがあるからね。それをこれから伝えていきたいと思っている。それじゃあ、また」と…。

 連載のタイトルを「八転び七起き」に決めた時「七転び八起き、じゃないのが俺らしいと思うんだ。いつも転んでいるからね。そこから這い上がろうといつも思ってやってきたから」と話していた大豊氏。また起き上がってくれるはずだったのに…。そういえば55番に引っ掛けて「55歳になったら野菜とかを作って生活するってのはどうかなと思うことがあるんだよ」とも言っていた。51歳で永眠となったが「背番号55」は「大豊泰昭」の代名詞と記者は思っている。