【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(34)】この世に神はいないのか――そんな絶望的な気持ちになったのは広島移籍1年目、1996年の開幕直前でした。前年の秋季キャンプから春季キャンプ、オープン戦といつになく順調で、首脳陣からシーズン最初の登板日を告げられた後に、左太ももから思い出すだけでもゾッとする音がしたのです。「バチーン」。そう…肉離れでした。

 長いシーズンを考えたら、完治するまで休むべきです。しかし、当時の僕はそんな悠長なことを言える立場ではありません。「やっぱり故障が多い」というレッテルを貼られ、チャンスを与えられることもなかったでしょう。何より拾ってくれた三村敏之監督に対して申し訳ないとの思いもあり、故障を隠すという決断に至りました。

 テーピングで患部をぐるぐる巻きにして臨んだ移籍後初登板、4月10日の横浜(現DeNA)戦は金本知憲やロペスの適時打で4点の援護をもらいながら5回5失点で勝ち負けなし。ナイショにしていたので言い訳もできませんでしたが、左太もも裏肉離れの影響がもろに出てしまいました。それでもだましだまし調整を続け、2度目の先発となった同17日の横浜戦では7回6安打無失点。94年7月14日のオリックス戦以来となる643日ぶりの勝利を挙げることができました。

 気迫だけで勝ったわけではありません。伏線となったのが10日の前回対戦でした。5回5失点で白星こそ逃しましたが、三村監督はシュートを武器にした僕の投球に可能性を見いだしてくれていたのです。実際に勝利投手となった14日は奪った21個のアウトのうち、ゴロアウトが12個。その持ち味を引き出してくれたのが南海時代からの付き合いで、担当スカウトも同じ杉浦正胤(まさたね)さんという捕手の西山秀二でした。

 プロ入り時に南海の投手コーチだった河村英文さん直伝のシュートは僕の武器でしたが、実を言うと本格的に投げるようになったのは広島に来てからだったのです。当時のセ・リーグでシュートピッチャーといえばヤクルトの吉井理人に巨人のガルベス、横浜の盛田幸希ぐらい。振ってくるパの打者に対して、当ててくるタイプが多いセの打者にはシュート、シュート、スライダー、カーブという投球スタイルが有効だと考えたのです。

 この復活勝利では、投球とは別に自慢できることがあります。2回と4回に巡ってきた打席で、送りバントを決められたことです。特に2―0の2回一死一、二塁からの投前犠打は1番・緒方孝市の三塁への適時内野安打の呼び水となり、自分を助けることにもなりました。オフに福岡のバッティングセンターで金属バットを手に黙々とバント練習したことも無駄ではなかったのです。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。