【赤坂英一 赤ペン!!】巨人の元投手コーチ・中村稔さんが、今月2日に82歳で亡くなった。

 2006年に74歳で他界した藤田元司さん自身をはじめ、ヘッドコーチの近藤昭仁さん(19年80歳没)、守備コーチの滝安治さん(03年62歳没)もすでに故人だ。第2次藤田監督時代(1989~92年)に在野から巨人入りした主要首脳陣が、全員鬼籍に入られた。

 あの時代、斎藤雅樹がエースに成長したきっかけは、89年の11試合連続完投勝利にあった。実は、この舞台裏で中村投手コーチが意外にも大きな貢献をしている。

 藤田さんは連続完投が続いている間、何度も「斎藤を代えるか。もうもたないよ」と中村さんに相談した。そのたびに中村さんは「大丈夫、大丈夫。そのうち立ち直りますから」と押し戻していたのだ。ベンチでこの光景を見た加藤初兼任投手コーチ(16年66歳没)はこう言っていた。

「藤田さんも本心では斎藤を続投させたいんだが、いまひとつ自信が持てない。そういう時、稔さんが絶妙のタイミングで励ます。だから、藤田さんには稔さんが必要だったんだろうね」

 ヘッドコーチの近藤さんは叱責役だ。当時の主砲は藤田さんが格別かわいがっていた原辰徳・現監督。その原が本塁でアウトになると「中途半端なスライディングをするな!」と、試合後の全体ミーティングで厳しく注意。僕がその件について聞くと「アレは原の怠慢プレー。罰金ものですよ」とバッサリやっていたものである。

 当時、巨人OBの間では「藤田さんは原を甘やかし過ぎだ」ともっぱらだった。そこで近藤さんに原に“喝”を入れる役を任せていたのだろう。

 滝さんは選手、コーチとして実績が乏しく、89年の入閣は球界を驚かせた。すると、藤田さんが発起人となり、コーチ就任パーティーを開催。壇上で「滝をナメてもらっては困ります」などとドスを利かせたあいさつをしている。こんなことも今時では考えられない。

 滝さんはコーチ就任前、文藝春秋の雑誌などで評論家やライターとして様々な活動を展開。詳しい裏話をつづった記事には、コアなファンが多かった。試合のない移動日に記者がネタに困っていると、滝さんが言いだしたことがある。

「よし、俺が一つ球界に爆弾を落としてやろう。何のネタがいいかな」

 この時は、藤田さんが「余計なこと言うもんじゃない」とたしなめ、続きが聞けなかったのは残念。みなさん、今は天国で昔話に花を咲かせていることだろう。

 ☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。