1976年6月26日、新日本プロレス日本武道館大会で行われたアントニオ猪木 vs モハメド・アリから半世紀がたった。プロレス王者とボクシング世界ヘビー級王者の究極の真剣勝負は、いまだに語りつがれている。2人にゆかりのある東京・新宿の京王プラザホテルでは、9日から31日まで「格闘技世界一決定戦50周年記念アントニオ猪木 vs モハメド・アリメモリアル展」を開催。猪木さんの実弟で猪木元気工場(IGF)社長の猪木啓介氏が、当時の新日本・営業担当として〝伝説の一戦〟を振り返った。

当時は営業担当だった猪木啓介氏
当時は営業担当だった猪木啓介氏

 啓介氏は1972年に新日本が設立されて以来、営業担当だった。「兄貴としてはプロレスが(世間から)どう見られているか、わかっていた。だから、少しでも違うと見てもらえるように」とアリ戦にのめり込んでいた。プロレスNWF世界ヘビー級王者とボクシング世界ヘビー級王者の対戦はグローバルな関心を呼び、クローズド・サーキットで世界中継を実施。当時の報道によると、同サーキットの収益は1500万ドル(当時レートで45億円)、新日本も全体で20億円以上の収入を見込んでいたという。

 ただ、実際の日本武道館は少々違っていた。啓介氏は「30万円の最前列の席は最初に売れた。アッという間に」と話す。30万円席は猪木さんの後援会を主体にした「ロイヤルリングサイド」で、プレイガイドでは発売されず、購入希望者は直接新日本に電話で問い合わせる方式だった。インターネットはもちろん、プレイガイド網も現在ほど整備されていない時代を物語っている。

 このため前売りの段階では完売とはならず、なんと当日券も販売された。大会の主催は新日本プロレスと東京スポーツ新聞社。当時の報道では「おかしなものでリングサイド、2階指定席の切符はすべて売り切れているのに、1階の隅っこの方だけ残っている」とあり、当日売り分は「約3000枚ほど」とも記される。

 啓介氏は「全部売り切れたわけではないのは確か。値段が値段だけに高いから」と証言。一般販売チケットの値段は9種あり、「特別リングサイド」が10万円で、最安値の「2階指定席E」は5000円だったが、「この頃はだいたいリングサイドが5000円くらいだった」(啓介氏)という。猪木―アリ戦では一般的なプロレス興行の約20倍、当時の大卒初任給(9万円前後)を超える破格過ぎる価格設定だった。

 しかも試合開始は米国などでの放送に合わせ、午前11時50分だった。こうした状況では、一般のプロレスファンにはなかなか手が出ないだろう。では、当日券は完売したのか。啓介氏は「そこまで記憶にないが、(当日券を求める)お客さんは並んでいた」と話し、主催者発表は1万4000人となっている。

 さらに猪木―アリ戦で啓介氏には、営業担当としてものすごい仕事が待っていた。アリサイドに渡す報酬のため、上司の命を受けて、大阪のスポンサーに現金2億円を受け取りに行ったのだという。「現金をお願いして『じゃあ用意する』と言われて、大阪まで行きました」と、啓介氏は苦笑いしながら語る。当時はアリ軍団が拳銃を所持しているというウワサも流れるほど、殺伐としたムードがあった。

 決戦当日。啓介氏は「当時はお客さんを案内したりするので、営業担当は基本的に試合を見られない。でも、アリ戦だけは隠れて見た」。続けて「勝ってほしいけれど、身内ですから不安はあった。心配だった」と話すように、プロレスラーにとってはがんじがらめだったルールにより、猪木さんはグラウンド状態からローキックを放つ戦法に終始。3分15ラウンドを戦って引き分けとなった。

 大きな見せ場のないまま終了し〝世紀の大凡戦〟と酷評された。啓介氏によると、当時は母の文子さんが日本に滞在していたが、世間からたたかれる猪木さんを心配していたという。新日本にも20億円の収入ではなく、約30億円の負債が残された。

 ただその後、総合格闘技の普及によって、猪木―アリ戦が「究極の真剣勝負」と再評価されることになる。啓介氏も「ああいう試合は二度とできないし、やる人間もいない。すごい試合をアントニオ猪木がやったということ」と話し、当時を懐かしんでいた。