【プロレス蔵出し写真館】今から30年前の1996年(平成8年)9月16日、新日本プロレスの名古屋大会に招かれざる集団が乗り込んできてリングジャックした。
グレート小鹿が引き連れて来たのはケンドー・ナガサキ、田尻義博(後のTAJIRI)、山川征二(後の竜司)、たにぐちゆういち(後の谷口裕一)ら8人の大日本プロレスのレスラーたち。
スーツ姿の小鹿社長にライトが当たると「帰れ!」「お前の上がるリングじゃないぞ!」。9000人の観衆から一斉にブーイングが湧き起こった。小鹿社長がマイクで訴える。
「聞いてくれ。俺たちは本当にやって来たぞ。どこぞの弱虫のように偉そうにふんぞり返ってるだけじゃないんだ。君たちもインデー(※インディー)の試合を見てみろ。ブツクサ言うのはそれからにしろ」
この日、小鹿らは午後4時45分、第4試合終了後に会場の愛知県体育館に到着。小鹿は長州の待つ控室へ直行した。その瞬間、激しい怒号合戦がドア越しに響き渡った。
「この野郎! やる気ならシューズとタイツを持って来い! コラッ」と長州。小鹿は「口だけじゃなく行動してみろ」と応じた。時折机が倒れ、イスが飛び交う音が聞こえる。しばらくして小鹿が控室から出て来て、リングに向かったのだ。
さて、小鹿らの一連の行動は、この年6月30日に横浜アリーナで開催された「メモリアル力道山」での長州発言が原因だった。この日出場したインディー団体に対し、長州は試合後「まともに見られたのは後半の何試合かだけ。あんなのプロレスじゃない。オレから言わせりゃ同じ世界の人間には見えない。あまりにもお粗末」と〝インディー批判〟していた。
この発言にグレート小鹿がかみついた。「こっちはぬるま湯のメジャーと違ってみんな必死。インデーの中身も知らないくせに偉そうなことを言うな!」と長州へ向け、宣戦布告。「インデー全体でまとまって戦ってやる。オレが声をかければ選手は集まる」と豪語した。
さらに、「ピラニアデスマッチ」に沸いた8月19日の横浜大会では「非公式ながら4~5団体はオレに賛同している」とアピールした。確かに東京プロレスの石川敬士社長、矢口壹琅ら「長州もインディー(旧ジャパンプロレス)じゃないか」と痛烈に批判する者もいた。
長州は23日に会見して「あれはインディー批判じゃない。自分の気持ちを正直に言っただけ」と前置きして「(インディーにも)気になる選手はいるが、引っかかった魚が小さすぎた。小鹿はこの暑さでボケたんじゃないか。(ターザン)後藤なんかに(反論の)口火を切ってほしかった」と本音を吐露した。
9月30日には大日本の大宮大会に、新日本の永島勝司取締役企画部長が訪れて小鹿社長と会談を持った。永島氏は「他団体を含めた出場選手リストを作ってもらってから、もう一度話し合いたい」と返答した。
小鹿はこれを受けて10月13日、新日本の後楽園大会にリストを持参。すさまじいブーイングをものともせずリングを占拠してリストを高々と掲げ「お前ら、泣くなよ」と吐き捨て、リングを下りて新日正規軍の控室の扉を力強く開けて長州に突きつけた。
長州は小鹿に蹴りを放って〝歓迎〟した(写真)。
リストにあったインディー出場選手は「ケンドー・ナガサキ、田尻義博、中牧昭二、松永光弘の4人。そしてXが3人」とあった。
長州は「やる条件として小鹿、テメーが出て来い! ヘルメットでも紋付きでも何でもやってこい(※大日本のリングで小鹿社長はコスプレで試合に登場していた)」と返した。
ところで、大日本との対抗戦が翌97年1・4東京ドームと決まり、グレート・ムタとの対戦が決まった松永光弘は「小鹿社長に勝手にやられた。ドームに出る意思はない」と参戦拒否を通告した。
大日本の登坂栄児社長は当時を振り返り「(対抗戦は)小鹿さんの意向です。僕も最初は面白いとは思ったんです。小鹿さんはもう、完全に商売にしたいと思ったと思いますし、田尻さんは上昇志向が強かったので、自分が上がっていくためとしてはいいチャンスだと思ったと思います。松永選手は当時のインディペンデントのアイデンティティーを担ってた。お客さんたちを先導、誘導できる立場にあったと僕は感じていた。松永さんは〝失うものの方が多い、大きい〟ということを強く主張していて、僕も話を聞いて、まったくその通りだと思いました」と語る。
「今思い起こしても、団体内で松永光弘の理解者として僕は振る舞った方がいいっていうふうに強く思った自覚があります」(登坂社長)
小鹿はWARに協力を求めるも拒否され(※東京プロレスは〝お家事情〟でそれどころではなくなった)、連合軍は大日本とフリーの中牧で結成された。結果的に、対抗戦としては小規模なものとなったのだ(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













