【元局アナ青池奈津子のメジャー通信】人のルーツは必ずしも1つとは限らない。
「自分はプエルトリコ生まれだけど、ドミニカ共和国で育ったから(文化的には)少しミックス。両親は2人ともドミニカ人だけど、母がシェフとしてプエルトリコのカロリーナにあった祖母のレストランで働いていた時に僕が生まれたんだ。祖母が亡くなり、4歳くらいの時にドミニカへ」
ウィリー・カストロがとても流ちょうな英語で受け答えをしてくれたので、てっきり米国の自治領であるプエルトリコの影響かと思ったら「7~8歳の時にアメリカに移ったから英語ができる。最初はノースカロライナ州に行ったけど、その後はフロリダのポートセントルーシーに引っ越して3年くらい住んだ」と言う。
ウィリーはいわゆる転勤族ならぬ“野球ジプシー”だ。しかも2世代にわたる。父のリリアーノさんは1980年代後半に2年間だけタイガースのマイナーリーガーだったが、ケガによって選手生命を絶たれた。コーチに転身し、タイガース傘下のチームから、その後はメッツのコーチとして計30年近くも務めることになる。ウィリーがフロリダに移ったのはメッツのスプリングトレーニング施設があるからだとして、なぜノースカロライナだったのだろう…。
本人も記憶があいまいらしく、さまざまな地名が出てくるのでインタビューでも追い切れなかった。だが、ウィリーには3歳上の姉と6歳下の弟がいて、シェフとして時に一家を支えた母ロクサナさんと、野球の仕事で米国に単身赴任するリリアーノさんが当時3人の子供を抱え、何とかやりくりしていた姿が目に浮かんだ。
そして、ようやく落ち着いたフロリダでウィリーが本格的に野球を始めることになる。2006年のメッツはホセ・レイエスといったスター選手が活躍し、地区優勝も果たした。父の職場についていき、大リーガーたちの世界を間近で見た10歳の少年にはインパクト十分だ。家族は再び選択を迫られる。
「父の判断でもっと野球をするためにドミニカに戻ったんだ。あっちの方がハングリーだし、24時間、毎日野球ができる環境があるから、と」
米国に残ったままだったら、おそらく週末にリトルリーグの試合に出るくらいしか機会がなかっただろう。ドミニカ共和国に戻った11歳のウィリーは毎朝5時に起きてフィールドに通い、何時間も野球に明け暮れたという。
何だかとても大変そうなことも、あたかも当たり前のことのように語るウィリー。父親と離れることに寂しさもあったはずだが…。「そこは慣れていたよ。父はいつもチームに帯同していたからね。でもシーズンが終わって帰ってくると、すごく面倒を見てくれた。毎日一緒に練習したし、それが普通だったんだ」。何というか、2人とも覚悟が違う。
「野球だけでなく、この世界の仕組み、フラストレーションや浮き沈みがあることもすごくよく知っている父だから。僕の野球人生を最もインスパイアしてくれた人だよ」
そんな父の言葉で今も忘れられないものを聞いてみた。
「今のお前でいいんだ。そのまま前に進め。今そこにいるのは、お前の才能と能力があるからだ。頭を上げて真っすぐ前を見続けろ」
見ていたのは、きっと父の背中だ。
☆ウィリー・カストロ 1997年4月24日生まれ、プエルトリコ出身。2013年にアマチュアFAでインディアンス(現ガーディアンズ)に入団。18年7月にタイガースにトレード移籍し、19年8月にメジャーデビュー。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとしてツインズ、カブスと渡り歩き、今年からロッキーズと2年契約を結んだ。183センチ、95キロ。












