【多事蹴論104】天才レフティーとフィリップ・トルシエ監督の確執とは――。1999年6月開幕の南米選手権(パラグアイ)に招待された日本代表はペルーに2―3、パラグアイに0―4、ボリビアに1―1の1分け2敗で1次リーグ敗退。2002年日韓W杯を前に世界との大きな差を突き付けられた大会中、イタリア1部ベネチアに移籍するMF名波浩が指揮官と“衝突”し、大きな波紋が広がった。
同大会ではシドニー五輪アジア予選と日程が重なったため、主力と考えられていたMF小野伸二やMF稲本潤一ら「ゴールデンエージ」と呼ばれる世代の選手は予選に専念し、中堅クラスの選手を中心にメンバーを編成した。しかし、急造チームであったことやFW中山雅史が練習試合で負傷し帰国するなど、万全の状態ではないまま決戦に挑んだ。
初戦でペルーに敗れて迎えた2戦目のパラグアイ戦。日本は序盤からチグハグな動きで組織力を発揮できず、最後まで機能しないまま4失点で完敗。司令塔を務めた名波は“懲罰”と言わんばかりにハーフタイムで交代となった。トルシエ監督は「負けることはいいが、ガッツを見せないで終わったことが恥ずかしい。選手はここに観光に来ているようだ」とし、名波について「大きな失敗」と糾弾。さらに1次リーグ敗退が決まった時には「名波には期待していたが、がっかりだ。人間的に一生リーダーになれない。技術と才能はあるが、精神力が足りない」とこき下ろした。
その一方の名波も指揮官への不満をぶちまける。トルシエ監督について聞かれると「規律正しいことばかりしていても弱いチームなんだから勝てない。監督の言うことを無視してでもやらないとダメ」とし「ムダな動きが多い」とダメ出しされたことには「自分では『つぶれるまでやれ』とか言うくせに矛盾しているよ。わかんないよ。あのオヤジが何を考えているのか」と反発し、今後の日本代表参加を拒否する方針を示唆した。
そんな中で、トルシエ監督は日本サッカー協会の“仲裁”もあってイタリアでプレーする名波の元を訪問。直接会談で再び日本代表への協力を要請した。そして迎えた00年10月、アジアカップ(レバノン)開幕戦で優勝候補サウジアラビアを4―1で下すと、勢いに乗った日本は名波を中心に“一致団結”し優勝を果たした。南米選手権では「一生リーダーになれない」と言われたが、リーダーとしてチームをまとめ上げた。
日本の10番を背負って大会の最優秀選手(MVP)に選出された名波は「試合後に“チームをコントロールしていたのはお前だ”と言われた。トルシエ監督にとって最高の賛辞でしょう」と納得の表情。指揮官は過激な言動とスパルタ指導で多くの選手たちと衝突を繰り返し、解任もささやかれていたが、名波のおかげで続投が決まった。 (敬称略)











