【多事蹴論102】日本代表MF中田英寿の獲得に乗り出したヴェルディに“勝算”はあったのか――。2001年に本拠地を東京に移し「東京ヴェルディ1969」となるクラブは“東京元年”に向けて、イタリア1部ローマの日本代表MF中田英寿に熱視線を注いでいた。「日本の大黒柱」と呼ばれた中田は首都で再スタートするチームにとって最大の目玉であり巨大戦力。名門復活を掲げる中で、獲得に動き出していた。

 ヴェルディが94年米国W杯優勝メンバー、ブラジル代表FWロマーリオとともに中田の獲得を画策したのは、約5万人収容のスタジアムをファンで埋めるにはスターの存在が欠かせなかったからだ。人気者と首都移転という節目でサッカー界に確固たる地位を築こうとしていた。莫大な獲得費用がかかる資金面でも親会社の日本テレビや各種スポンサーなどによる“ご祝儀相場”になるという思惑もあったという。

 そんな中、ヴェルディ幹部は外部に情報が漏れるのを防ぐため、クラブスタッフを一切使わず公認資格を持つ選手代理人と契約。中田が所属するマネジメント事務所「サニーサイドアップ」や中田を担当する大物代理人のジョバンニ・ブランキーニ氏、所属するローマなど極秘裏に接触し、ヴェルディ側の計画を伝えた。その上で01年1月から02年W杯が終わるまでの1年半のレンタル移籍を提案した。

 厳しい見通しだったが、ヴェルディには“勝算”があった。中田は加入したローマで“王子”ことイタリア代表MFで10番を背負うフランチェスコ・トッティの控え。ターンオーバーや守備的MFで出場機会はあるものの、レギュラーとは言えない状況だった。02年日韓W杯を控える中、日本代表にも、なかなか合流できない日々が続いていた。そこでJリーグに復帰すれば、試合勘の欠如という不安が解消されるとともに日本代表のチームメートとも合宿を通じて連係を深められるというメリットを強調して訴えたという。

 また、国内外を問わず数多くのスポンサー企業と契約していた中田サイドが懸念していた“都落ち”についても、アジア初で自国開催となる「W杯のために…」という大義名分があれば商品評価を下げずに済み、新たに日本企業からの支援も期待できるとして、交渉を続けた。当時ヴェルディ川崎の坂田信久社長は本紙の取材に「いろいろやっていることは確か。事務所サイドからは前向きな返答をもらっているが、本人の意向は聞いていない」と語っていた。

 結局、代理人サイドは世界トップの舞台で戦っている選手を日本に戻すことに難色を示し、ローマ側も主力を手放す意向は一切なかった。さらに中田自身に、再びJリーグでプレーする意向はなかったことや、自国でのW杯開催を前に盛り上がる日本の喧騒を嫌ったため、ヴェルディ移籍は幻に終わった。(敬称略)