【多事蹴論100】日本代表パウロ・ロベルト・ファルカン監督はなぜ7か月で解任となったのか――。1993年に「ドーハの悲劇」として知られる米国W杯アジア最終予選で惜しくも敗退した日本代表はオランダ人のハンス・オフト監督が退任。紆余曲折を経て、新指揮官に元ブラジル代表監督を務め、選手時代に“神様”ジーコやソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともにブラジル代表で「黄金のカルテット」を形成していたファルカン氏が就任し、94年4月に始動した。

 ファルカン監督は初の代表招集で「天才ドリブラー」と呼ばれていたMF前園真聖や「魔法の左足」のDF岩本輝雄に加えて「スーパールーキー」のFW城彰二ら若手を抜てきし、周囲を驚かせた。その後もオランダのエクセルシオールでプレーしていたFW小倉隆史を選出するなどフレッシュなメンバーで臨んだが、大幅な選手変更と急激な南米路線への転換もあって、思うような結果は得られなかった。

 日本サッカー協会強化委員会の川淵三郎委員長(Jリーグチェアマン)はファルカンジャパンについて「あんまり試合内容も良くなかったんだ。それに強化委メンバーだったセルジオ(越後)が言葉(ポルトガル語)ができるから『オレが面倒を見る』って言っておきながら、あんまり世話をしなかった。それで広島アジア大会(94年10月開幕)で(去就を)判断しようと…。ここでベスト4にならなければ解任すると契約書に入れていたから」と語っていた。

 そのアジア大会でファルカン監督はイタリア1部ジェノアに移籍し、負傷明けのカズことFW三浦知良を緊急招集。しかし1次リーグでは初戦、2戦目ともにドロー。負ければ敗退となる最終ミャンマー戦に勝利し、1勝2分けと苦しみながら突破するも準々決勝で宿敵韓国と当たり、激闘の末に2―3で敗退。ノルマだったベスト4入りを実現できなかった。イレブンもファルカン監督の起用法や戦術に対する不満を隠さず、チームは大混乱となった。

 川淵委員長は「ファルカンは少しお粗末でキチンとした指導ができていなかった。それに何かと言えば審判のせいにして(審判を選べない)サッカー協会が『悪いんだ』と言ってきた。セルジオはもう少し時間が必要と“続投”って言っていたけど、主将の柱谷(哲二)も監督に怒鳴っていたし、僕ももうダメだなと思った」と言うように、当初の方針通りに解任を決断した。

 かつてイタリア1部の名門ローマでプレーしたスター選手で「ローマの鷹」として絶大な支持を得ていた。それだけに日本サッカー界の期待は大きかったが、見せ場もないまま退任となり、98年フランスW杯で初出場を目指す中、大きな失望が広がった。(敬称略)