南海、ダイエーで主に内野手としてプレーし、引退後はコーチとしてもグラウンドに立った湯上谷竑志さん(59)。現在は福岡市内の「りらくる福岡小笹店」でセラピストとして働き、第二の人生を歩んでいる。プロ野球の勝負の世界を離れ、今は日常の仕事の現場に立つが、目の前の物事に誠実に向き合う姿勢は現役時代から一貫している。
現役時代の記憶で、今も鮮明に残る場面がある。1996年5月9日、日生球場での近鉄戦。王貞治監督就任2年目、低迷が続く中で、ダイエーの選手らが乗ったバスがファンに囲まれ、生卵を投げつけられた。いわゆる〝生卵事件〟だ。湯上谷さんも、そのバスの中にいた1人だった。「雰囲気は、もうシーンとしてました」。重苦しい空気の中で、怒りよりも先に浮かんだのは「もったいない」という感情だった。「粗末にするな、言いたいことがあるなら堂々と出てこい」。選手として、率直な思いが胸に去来した。
対戦相手で「これはかなわない」と感じた投手として名前を挙げたのは西武の郭泰源だ。「どうやって打てばいいのか分からなかった」。150キロ台の真っすぐに、145キロ前後の鋭い変化球。「考える暇がない」。捉えた感覚もないまま打球が前に飛ぶこともあり、「フォアボールになったらラッキー、そんな感じでした」と振り返る。音もなく「ヒュッ」と来る独特の球質は、当時〝オリエント・エクスプレス〟と呼ばれた速球だった。
忘れられない記憶はもう一つある。現役最終年の2000年、リーグ優勝となり訪れたV旅行。ハワイ島に到着して間もなく、当時の瀬戸山隆三球団代表から「ゴルフ行くぞ」と連絡が入った。時差で体は重く、「勘弁してほしい」と思いながら指定された場所へ向かうと、そこに王監督がいた。思いがけない展開に驚きつつも、同じ組でラウンドし、さまざまな話を交わした。現役生活の終盤に刻まれた、忘れがたい時間の一つだ。
ユニホームを脱いだ後も、野球と無縁だったわけではない。20年からは九州三菱自動車(現KMGホールディングス)硬式野球部で守備走塁コーチを務め、23年シーズンをもって退任した。「いろいろ勉強になりました」。指導の現場で得た経験も、今につながっている。
現在は福岡市内の「りらくる福岡小笹店」でセラピストとして入店。施術は体力も集中力も要するが、やりがいは明快だ。集合時間より早く動き、準備を整えてから施術に入るのは現役時代から変わらない習慣。「準備しておくと、気持ちが楽なんですよ」。淡々とした言葉の端々に、長年培ってきた姿勢がにじむ。
施術で意識しているのは〝強さ〟と〝幅〟だ。「同じもみ方では満足してもらえない」。高齢者や骨の弱い人には特に注意を払い、指先で状態を確かめながら進める。現役時代、多くのケアを受けてきた経験は感覚的な引き出しとして、現在の仕事にも生きている。「力加減とか、どこがつらいかっていうのは分かる」。施術後にかけられる言葉が、日々の支えになっている。「終わって『楽になった』『助かった』って言われると、ああ良かったなって思います」。その一言が、次の施術へ向かう原動力になっている。
仕事終わりには、日々の区切りとして酒を口にすることが多い。まずは小さめの缶ビールで喉を潤し、その後は芋焼酎のロック。寒い日はお湯割りにすることもある。外食は少なく、総菜を買って家で食べる生活だ。独り暮らしで、基本は家にいる時間が長い。コーヒーも好きで、コロンビアやグアテマラの豆を選び、安価で味の良いものを見つけるのを楽しみにしている。「焼酎とかワインも、値段にこだわらず、気に入ったものを選んだりする」。日常の中に、静かな充足がある。
将来の目標について、答えは飾らない。「正直、目標とか夢はない。ただ働くだけです」。それでも「お客さんがいる限りは続けたい」と言葉をつないだ。勝負の世界を経験してきたからこそ、いまは目の前の一人、一つの仕事に向き合う。その積み重ねが、今の日々の仕事と生活を支えている。
ゆがみだに・ひろし 1966年5月3日生まれ。富山県黒部市出身。石川・星稜高で春夏通じて甲子園に4度出場。南海、ダイエーで主に内野手としてプレーし、プロ通算16年間で1242試合出場、2000年に引退。その後、球団で営業、コーチ、寮長を歴任。2020~23年はKMGホールディングスでコーチを務めた。現在は福岡市内の「りらくる福岡小笹店」でセラピスト。














