【平成球界裏面史 近鉄編112】平成18年(2006年)、近鉄バファローズの中心投手だったジェレミー・パウエルは読売巨人軍のユニホームに袖を通していた。なかなかに激動の年表である。平成13年(01年)に来日し近鉄最後のリーグ優勝に貢献するなど、日本シリーズでも登板を経験。そして平成16年(04年)にはオリックスとの球団合併で所属チームの消滅という悲しみをナインと分かち合った。

 平成17年(05年)は合併球団となったオリックスバファローズでプレー。期待通りに先発として200イニング以上を消化し、14勝という結果を残した。その活躍ぶりに注目した日本のビッグクラブ・巨人がパウエルの獲得に乗り出した。目まぐるしいかもしれないが、米球界に身を置いていたパウエルからすればそうでもないだろう。NPBで一番の名門チームとの契約にやる気をみなぎらせていたはずだ。

 その平成18年(06年)は開幕から先発ローテーションに入りロケットスタート。巨人デビューから2試合を連続完封したかと思うと3試合目も完投勝利。4試合目は完投ではないものの勝利投手となり、4連勝で4月の月間MVPを獲得するに至った。

羽田空港でポツンと階段に座るパウエル(2007年2月)
羽田空港でポツンと階段に座るパウエル(2007年2月)

 5月9日に行われた古巣・オリックスとの対戦では先発し8回4失点で勝利。ところが、6月2日の西武戦で高山久に頭部死球を与えてしまい初の危険球退場となると、徐々に調子を落としていき、後半戦は勝ち星を伸ばすことができなかった。最終的には全て先発で28試合、187回1/3に登板し10勝10敗、防御率3・31という成績。つまり5月以降は6勝10敗ということになる。

 2年連続かつ、来日後4度目となる二桁勝利をあげたものの、パウエルの成績はこの後から降下の一途をたどることになる。オフに巨人と契約を更新し、臨んだ平成19年(07年)のキャンプ中には右膝半月板を損傷。母国のアメリカに帰国して患部の修復手術を行った。

 アリゾナ州・フェニックスのトレーニング施設でリハビリを行い、5月28日には再来日。チーム自体は幸い、首位を走り好調だったため復帰を急(せ)かされたわけではない。パウエル本人も「故障前のコンデションに、できるだけ近い状態に戻して、準備万端で戦列に復帰したい」との意思を示し慎重にリハビリを進めていた。

 結果、一軍の試合に戻ってきたのは再来日から2か月後の7月28日。広島戦に先発し5回3失点で勝敗つかずという成績だった。その後も登板した試合では打ち込まれることが多く、196センチの巨体であることも相まって、手術の影響が懸念される声が絶えなかった。

左から高橋由伸、小笠原道大、阿部慎之助(2007年7月)
左から高橋由伸、小笠原道大、阿部慎之助(2007年7月)

 最終的に7試合の登板に止まり、0勝0敗で防御率5・80という惨状。来日後初めての未勝利のシーズンを経験した。巨人自体は日本ハムからFA補強の小笠原道大、阿部慎之助、高橋由伸、李承燁の30本塁打カルテットを擁してリーグトップの191本塁打を放つなど、80勝63敗でリーグ優勝。追いすがる阪神を引き離して頂点に立った。

 だが、その陰でパウエルは巨人在籍2年をもって退団。同年11月29日にはデーモン・ホリンズ、ジェレミー・ゴンザレスと共に戦力外通告を受け、翌30日に自由契約として公示された。そして、次年度にも日本球界に残留することにはなるのだが、パウエルは思わぬトラブルに巻き込まれることとなる。

ロングティーをするゴンザレス(右)とホリンズ(2007年2月)
ロングティーをするゴンザレス(右)とホリンズ(2007年2月)