故郷・牧丘町倉科を訪ねて

 「自然の日常生活の流れの中で付けた筋肉が理想である。日常生活、労働、スポーツなどを通じて知らず知らずのうちに鍛えられた〝生活筋肉〞は、見かけは弱そうに見えるけれども、実際はしなやかで強い。人工的に筋肉を作るのではなく、生活筋肉を筋力トレーニングで補給するのが理想である」

 強靭な足腰のバネ、ナチュラルなパワー、無尽蔵のスタミナで知られたジャンボ鶴田はその源が〝生活筋肉〞にあると説いていた。では、鶴田の〝生活筋肉〞はどのようにして育まれたのだろうか?

 今回の執筆にあたって、私は最初にジャンボの少年時代を知るために故郷を訪れた。2017年7月のことだ。

 新宿から特急『かいじ』に乗り、89分で塩山駅に到着。まず向かったのは鶴田が眠っている山梨県山梨市(旧・東山梨郡)牧丘町倉科の『祥雲山 慶徳寺』だ。

 駅の北口から約7㎞。塩山駅から228mも高い標高638mの急斜面を登りきった丘陵地にある慶徳寺までは約15分の道程である。

 タクシー乗り場で「ジャンボ鶴田さんのお墓までお願いします」と言えば、寺の名前を言わなくても通じる。私が乗ったタクシーのドライバーは「このまえは北海道からお参りに来たという兄弟が乗りましたよ」と言っていた。

 慶徳寺は臨済宗妙心寺派の寺で、甲斐武田氏の祖と位置付けられている新羅三郎義光の菩提を弔うために、息子の武田義清が如意輪観音を本尊として安置し、開基した。
鶴田の墓石はすぐにわかる。地球をイメージした高さ197㎝の円形の御影石で、墓石というよりもモニュメントのようだ。197㎝は鶴田の身長と同じ(公称196㎝)。

 子どもたちが大きくなった時に、鶴田の大きさを実感させたいという夫人の願いからだという。鶴田がフィリピンで亡くなったのは2000年5月13日(現地時間)、49歳の時。長男は14歳、次男は7歳、三男は5歳と幼かった。

 同月17日、JAL742便で家族と共に無言の帰国をした時には、到着ロビーに4台のテレビカメラと40人近い報道陣が待機し、鶴田ファミリーが姿を見せるや殺到してパニックになった。
出迎えにきていた三沢光晴が「こっち!」と、幼い三男に思わず駆け寄って抱き上げ、ガードした姿が忘れられない。

 大きな御影石にはAWA世界ヘビー級のベルトを腰に巻いて右腕を掲げている写真、「人生はチャレンジだ‼」の座右の銘、プロレスのタイトル歴、アマレス時代の戦績が刻まれている。戒名は「大勝院光岳常照居士」。

 墓前に線香と花を手向け、次に向かったのは同じ倉科にある実家だ。慶徳寺からは1㎞ほどの距離。歩いても20分かからないだろうが、105mも下らなければいけない急な坂のため、タクシーを利用した。途中に鶴田が通った牧丘第二小学校(2016年に山梨市立笛川小学校に統合されて現在は廃校)があった。

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〝生活筋肉〟を鍛えた少年時代

 鶴田の生家は、2歳上の兄・恒良が経営しているぶどう園の『ジャンボ鶴田園』。恒良の優しそうな目元は弟とそっくりだ。おっとりした口調も似ている。

 身長も180㎝を越えていて、「叔父さんも相撲取りになるぐらいだし(鶴田勝= 甲斐錦)、子どもの頃は誰が相撲取りかわからないくらい父方の兄弟は大きかったですね」と言うから恵まれた体格は家系のようだ。

 山梨県は鶴田姓が多いことで知られている。県全体で約2000人、特に倉科は小地域順位で鹿児島県南九州市御領に次ぐ全国第2位で、約200人もいるという。

立派な体躯を誇る兄・恒良。最強のルーツは遺伝にあった!
立派な体躯を誇る兄・恒良。最強のルーツは遺伝にあった!

 山梨県の鶴田姓の由来については諸説あるが、かつて倉科に近かった東山梨郡八幡村(現在は山梨市)では、寛元7年1月11日に石川氏の田に白鶴が飛来したことを記念したと伝えられている。しかし寛元年間は1247年(寛元5年)までで寛元7年は存在しないので、推定で1249年(宝治3年)のことだと言われている。

 「ウチの先祖は九州のほうの水軍。武田信玄か何かの関係でこちらに来たって聞いたことがあるんですけどね」と、恒良。

 武田水軍につながるまでには複雑な歴史があるが、ジャンボ鶴田家のルーツは、水軍として有名な松浦党に連なる肥前鶴田氏なのかもしれない。

 ジャンボ鶴田こと鶴田友美は1951年3月25日、鶴田林、常代の次男としてこの世に生を受けた。

 林は東京に出て運送業をやっていたが、長男だったために次男に仕事を譲って倉科に戻り、戻ってからも運送の仕事をやりつつ養蚕を営み、米、麦も作っていたという。
常代は一度離婚して林のもとに嫁いできたため、恒良と友美には母が実家に置いてきた義兄と義姉がいる。義姉・年子は鶴田の応援を受けて、東京・墨田区で『ジャンボ鶴田の店 チャンピオン』を経営していたことがある。

 さて、鶴田の名前が友美になったのは、生まれた時に未熟児のように小さく女の子のような赤ん坊だったからと言われているが、恒良はこう言って笑う。

 「私もまだ小さかったから、それが本当かどうかはわからないじゃないですか(笑)。小さく生まれて、大きく育ったって聞いたことはあるけど、そんなに小さくはなかったと思いますよ。3000gはあったと思いますよ」

 小学校4年生から急激に身長が伸び始めたとも言われているが、これも「いや、最初から大きかったと思うけど(笑)。子ども時代の友美は、この集落のガキ大将たちに引っ張られて遊びに行っていたんじゃないかな。小学校の頃、部活はなかったけど、友達と相撲を取ったりしてましたね」と、やんわり否定されてしまった。

 小学校から中学校に上がる頃には、恒良も友美も足が大きくて入る靴がなく、運動会には揃ってゴム草履で出場していたという。

 「小さくて、ひ弱だった男の子が小学生から大きくなって、スポーツ万能になる」というのは、鶴田本人がのちに自分なりに描いたジャンボ鶴田ストーリーなのかもしれないが、日々の生活が〝生活筋肉〞を作ったのは間違いない。

 「お寺からここまでもすごい坂だし、今は廃校になっちゃったけど、途中に小学校があったでしょ? 道は今のようにまっすぐじゃなくて、もっとクネクネしていたんですよ。そこを毎日走って通ってたわけだから」と恒良。

 牧丘第二小学校の校舎は実家から800m、徒歩で15分ぐらいの距離。実家との高低差は90mもあり、ここを6年間も走って通学していれば、筋力、筋持久力、全身持久力が付くのは当然だ。毎日の通学だけでなく、家の手伝いも鶴田の〝生活筋肉〟を作ったと恒良は言う。

 「昔は養蚕をやっていたから、蚕の餌になる桑の葉を上の畑で刈って背負い子(運搬する道具)で上り下りしなきゃならない。水田もあったからウシ(山梨で使われる稲干し具)を作るための木や竹を下から田んぼまで持ってこなければいけない。米にしてもなんにしても、背負子で運ぶ。そういう家業の手伝いでも足腰が強くなったんでしょう」

 牧丘第二中学校(1968年に山梨市立笛川中学校に統合される)に入学すると、鶴田のスポーツマンとしての才能が徐々に開花する。1年生の時、牧丘町体育大会の陸上競技に駆り出され、走り高跳びで優勝し、砲丸投げで3位に。普段の生活で身に付けた体力が活きたのである。

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