【橘高淳 審眼(6)】私が瀬田工高2年生だった1979年夏、滋賀県ベスト4で甲子園を逃しました。レギュラーのうち7人が2年生というチームで私も背番号2をつけて試合に出場していました。
悔しい思いをしましたが、秋からの新チームで甲子園を目指そうという機運は高まっていました。我々が中学から高校に進学するタイミングで、母校のOBの方々は水面下でスカウト活動を行っていました。滋賀県の甲子園常連校だった比叡山高からスカウトを受けている選手を瀬田工高に勧誘し、3年後の甲子園を目指していたようです。
1学年上の先輩たちと戦った時代にも練習試合では比叡山高に勝利していました。ですが、県予選では甲子園を逃す結果となりました。甲子園に出場した比叡山高は滋賀県勢として、都道府県別で“最遅”となる「夏1」勝を挙げました。
そして、勢いそのままに甲子園の舞台で全国ベスト8。我々は練習試合で勝っていたとはいえ、甲子園メンバーだった比叡山高の先輩たちはすごかったですね。実際に対戦してみて、この人たちはすごいなと憧れました。
ただ、それだけいいメンバーがそろったチームでも、後にプロになるような選手はいませんでした。プロ野球選手というレベルの壁が確実に存在するんです。
滋賀県は夏の甲子園に17回の出場を誇る近江高が2001年に準優勝したように、現在でこそ野球後進県ではなくなった気がします。都道府県別で最も遅く夏の1勝を挙げたというのも、実は理由があります。かつては滋賀県で優勝しても、そのまま県代表として甲子園に出られない時代があったからなんです。
夏の甲子園で1県1校制が導入されたのは78年の60回大会から。その大会では膳所高が出場し、群馬県の桐生高に0―18で敗戦してしまいました。それ以前の滋賀県勢は、甲子園での1勝の前にハードルがあったんです。
夏の甲子園大会では15年の第1回大会から京都府代表と滋賀県代表が、甲子園出場の1枠をかけて「京津大会」で決戦を強いられました。滋賀県勢の初出場は、八日市が西舞鶴を下した53年大会でした。その後は、全国屈指の強豪校として有名な平安(現龍谷大平安)などに阻まれ、甲子園の夢舞台は遠い存在でした。
さらに74年からの4年間は福井県勢との「福滋大会」というハードルが再設定。そんな理由もあって聖地は遠く、夏の甲子園での「未勝利県」のレッテルをはがすには時間がかかりました。
我々の新チームの話に戻します。79年の夏の滋賀県大会に2年生レギュラー7人を擁した我々は、新チームとなった秋から快進撃を始めます。第1戦はライバルの比叡山高。その試合に快勝するとそのまま決勝まで進み、県1位で近畿大会に進みました。
近畿大会の初戦は、兵庫県対決の1回戦で報徳学園を制した滝川高でした。滝川高には後に近鉄のドラフト1位となる石本貴昭投手が在籍していました。投手としてプロでバリバリ活躍した石本くんでしたが、高校時代は打撃もすごかった。滋賀県では勝てたとしても、井の中の蛙だなと思い知らされましたね。












