【橘高淳 審眼(3)】私が審判員としてデビューしたのは1985年、ウエスタン・リーグ公式戦の阪急戦(西宮第二球場)でした。当時の阪急の監督は名将・上田利治さん。二軍監督は中田昌宏さん。昌宏と書いて「まさひろ」ではなく「よしひろ」と読むんです。

 今の野球ファンからすれば昔の選手になってしまいますが、現役から指導者、球団フロントとして長く野球界に貢献された方です。兵庫県西宮市の鳴尾高校出身で51年のセンバツでは準優勝投手。慶大を経て阪急入りし、61年に野村克也さんと本塁打王を分け合うという活躍をされました。

 引退後はオリックスで編成部長も務められ、イチロー選手の才能を高く評価し、ドラフト1位候補に推薦したという逸話を持つ人物です。私自身、84年までは現役、ブルペン捕手としてユニホームを着ていたため、一から監督や選手を覚える必要はありませんでしたが、今では当時のスタメンを思い出せと言われても記憶がかなり薄れていますねえ。

 私の公式戦での出場試合数は3001試合。しかし、それは一軍であって、ウエスタン・リーグの試合はカウントされていません。当時の二軍戦は100試合もありませんでした。ファームで年に60、70試合くらいでしたかね。審判員としては6年目で一軍に上がることができて、9年目でレギュラーになれました。一、二軍の出場試合を合計すれば何試合になるんでしょう。

 当時から保管してあるNPB手帳(関係者に配布されるポケットサイズの手帳)を見れば分かるんですけどね。それとは別に審判員として現役だった当時は、日記に担当したすべての試合についての感想を書き込んでいたんです。でも、そっちは退任した時に全部捨ててしまいました。

 公式戦にデビューした日にボークと声に出せなかったこと、友寄先輩から教わったルールのこと、初めて帯同した中日の宮崎・串間キャンプのことも日記に記していたはずです。ただ、こういう形で取材を受けるなんて予定もしてませんでしたから。今思えば、残しておいてもよかったかなと思いますね。

 とはいえ2022年に審判員を退任してからそれほどの時間は経過していませんので、こちらのコラムには記憶の限りを振り絞ってお話しさせていただきます。

 さて、ここからは時間軸を少し変えて、私の出自に関してお話しさせていただきたいと思います。私は滋賀県の大津市出身です。最近は石山、草津の勢いに脅かされていますが、県庁所在地ですね。滋賀は私が幼い頃は「野球後進県」と言われていて、著名な野球選手も少なかったと思います。

 強いて挙げれば間柴茂有(ましば・しげくに)さんですかね(旧名は富裕=とみひろ)。滋賀県では野球の名門校として有名な比叡山高出身で69年ドラフト2位で当時の大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)に入団しました。日本ハム時代の81年には開幕から15連勝、15勝無敗で戦後初の勝率10割を記録した左腕です。

 私の高校の先輩に当たる君野健一(きみの・けんいち)さんもプロに進んだ投手でした。高校時代は52年の夏の滋賀県大会で優勝するも、甲子園予選京津大会決勝で山城高に敗れ、甲子園には出場できませんでした。当時は滋賀で優勝しても甲子園には出られなかったんです。53年には近鉄バファローズの前身、パールスへ入団し野手転向し4番も務めた方ですね。

 古いお話が続きますが、しばらくお付き合いください。