【橘高淳 審眼(4)】私が本格的に野球を始めたのは小学4年生の頃でした。プロに入る頃には身長184センチと大柄で、少年時代からずっと整列すると後ろの方でした。当時は硬式のボーイズリーグやシニアリーグなどがまだ盛んではなく、小学校の軟式野球チームでプレーしていました。
体育振興会というのがあって、各校区で男子は野球とサッカー、女子はバレーボールのチームがありました。チームとして野球をプレーしたのは4年生の時が初でした。ここが野球人生のスタートです。かなり小ぶりなC球という軟式ボールを使用していました。懐かしいですね。
私の校区内でスポーツ運動具店を経営されている方がいて、地域の審判員も務められていました。その方が我々を指導してくれて6年生までお世話になりました。私は常に4番を打っていたとか、そういう打順は覚えていませんが、自分で言うのもなんですけど上手な方でした。
みんなには「きっちゃん」と呼ばれていて「きっちゃんは絶対にプロに行けるで」とおだてられてはいました。ただ、明確にプロを意識したなんてことはありません。滋賀県は野球がそこまで盛んではなかったので、とある漫才師の方が「滋賀県は琵琶湖の面積が広いからグラウンドを十分に確保できない」などとネタにされていたくらいですから。
現在は昨年引退した元ソフトバンクの松田宣浩君や、現役では楽天の則本昂大君、阪神の植田海君らが活躍してくれています。「野球後進県」といわれていた滋賀ですが、今年の選抜甲子園大会では2校出場するんですね。そういえば前回の当欄で滋賀県出身の著名選手は少ないと書きましたが、中日の都裕次郎さんもいらっしゃいましたね。滋賀県の高校生として初のドラフト1位で1976年にドラゴンズから指名されています。忘れずに記しておきますね。
私はというと、小学校から普通に地元の公立中学に上がり、普通に野球をしていた印象です。顧問の先生も野球に対して特に情熱を燃やすということもなく、いい意味で放任されていました。ただ、3年生の時に野球が大好きな先生が顧問になり、4月からは熱血指導のもとで野球に取り組んだ記憶があります。
でも、夏の中体連の大会までわずか3か月少々で劇的な変化が起きるはずもありません。その先生いわく「あと1年早く来たらよかった。このメンバーなら勝てたのに」と話されていました。そういった感じでしたから、高校進学に関しても是が非でも甲子園を目指すという状況にはありませんでした。
ただ、母校の瀬田工高の入れ替わりになる3つ上の先輩方がたまたま強く、県ベスト4まで勝ち進んだんですかね。甲子園常連といえば比叡山高しかなかったような時代です。ですが、1学年上の先輩が瀬田工高に在籍していたこともあり、有力な選手を集めようという動きが母校にもあったようです。私自身、電気関係に興味があったので進学先としていいなという印象を持っていました。
そうするうちに流れがどんどん変わっていくことになります。どうやら我が母校は本気で甲子園を目指すため、スカウト活動に力を入れているようでした。












