【橘高淳 審眼(5)】私が中学3年生の頃、皆さんと同じように高校進学の時期が訪れました。その後、プロ野球の世界に入ることになりましたが、当時から真剣に甲子園、プロ野球を目指していたわけではありません。
母校になる瀬田工高で入れ替わりになった3学年上の先輩方が、県ベスト4まで勝ち進んだチームだったと思います。たまたま1学年上の先輩が瀬田工高の野球部に在籍していたご縁もあり、進学先に選ぼうと考え始めていました。
あの頃は滋賀県の甲子園常連といえば比叡山高しかなかったような時代です。瀬田工高はそこまでの強豪校ではありませんでしたが、私自身は電気関係に興味があり、工業高校への進学は希望に沿ったもので気持ちは前向きでした。
そうしたところ、何だかいい方向に流れが来ていると感じる瞬間がありました。隣の学区でライバル関係だった選手と話した時のことです。彼も進路に瀬田工高を選ぶというじゃないですか。
それだけではありません。他にも比叡山高からスカウトを受けているメンバーが、あえて瀬田工高に進学を希望しているという現象が起きたんです。どうやら水面下で我が母校のOBの方々がひそかにスカウト活動を展開していたようです。
結果的に我々の学年は、比叡山高に進学していたかもしれないメンバーが集結することになりました。1年生の夏からレギュラーとして県予選に出場した選手が3人。私は試合に出ることはできませんでしたが、捕手としてベンチ入りメンバーに選ばれました。
そして、夏の予選が終わり、我々が2年生に上がると、私も背番号2をつけて試合に出してもらえるようになりました。その時点でレギュラーのうち7人が2年生。それが1979年のことでした。
夏の滋賀県予選でベスト4といえば聞こえは悪くありません。ただ、甲子園に滋賀県代表で出場した比叡山高は、都道府県別では全国で最後となる「夏1勝」を挙げることになりました。8月8日の1回戦。釧路工高との試合は5回まで3点ビハインドという劣勢でした。前年の78年に春のセンバツに出場していた比叡山高は、前橋高の松本稔投手に大会史上初の完全試合を許すという屈辱を経験していました。同年の夏の甲子園では、膳所高が同じく群馬県代表の桐生高に0―18の大敗を喫していた経緯もありました。
また、今年も滋賀県は…。そういう雰囲気が漂う中で比叡山高は6回に一挙5点を挙げて逆転。県勢夏の初白星を願う人々の思いも後押しし、12―4の快勝で壁を打ち破りました。その勢いのまま、同校は全国ベスト8という結果を残しました。ですが、我々のチームは全国ベスト8になった比叡山高に練習試合では勝利を収めていたんです。我々は新チームで甲子園を目指すという機運が盛り上がりました。我々の学年が入学した際にそろったメンバーが心機一転、秋季大会からスタートすることになります。












