【橘高淳 審眼(7)】私が瀬田工高2年だった秋、母校は快進撃を見せました。県大会の初戦で甲子園常連の比叡山高を撃破すると、その勢いのまま県大会優勝。滋賀県1位で近畿大会に駒を進めました。
近畿大会の初戦は兵庫の滝川高です。我々はこの試合が1試合目でしたが、府県内の順位の関係で滝川高は同じ兵庫の名門・報徳学園との1回戦に勝利して臨んだ試合でした。滝川高の中心選手は後の近鉄ドラフト1位となる石本貴昭投手です。
その試合、実は石本くんは登板していません。結果的に瀬田工高が初回に3点を先制し、4―2で勝利はしました。全員で1勝をもぎ取ったことは事実ですが、滝川高の個人のレベルの高さを思い知らされました。
石本くんはもちろん、滝川高のメンバーでは山脇くん、新(しん)くんという3人の左打者が強力でした。捕手としてマスク越しに構えていて、全国レベルの選手というものをまざまざと感じさせられました。
この試合に勝利したことで我々は準決勝進出。和歌山県代表の新宮高に1―5で敗れはしましたが、滋賀県1位で近畿大会ベスト4という成績を残すことができました。次の春のセンバツはほぼ間違いない状況で冬を迎えました。
その後、学校にセンバツ出場の知らせが届き、1980年の第52回大会への出場が正式に決まりました。瀬田工高として初出場です。3月31日の1回戦は香川県代表の丸亀商高(丸亀城西)でした。この試合は4回に1―1の同点に追いつくところまでは善戦しましたが、終わってみれば1―6の完敗でした。
突出した選手がいたというイメージは決してありませんでした。ただ、野球のレベルが高い四国勢特有の野球巧者といいますか、全体的にまとまったチームでした。丸亀商高は左腕エースの高橋くんを中心とした全員野球で、このセンバツでベスト4の成績を残しました。
そうなれば、次は夏の甲子園出場を目指すしかありません。春夏連続の甲子園に向け、仲間と一緒に厳しい練習に取り組みました。前年は県でベスト4。新チームとなった秋の県大会ではぶっちぎりの優勝でした。夏の県予選でも優勝候補でしたが、大会に入ると苦戦を強いられました。
滋賀県は出場32校、5回勝利すれば甲子園です。準々決勝となった八日市高との対戦では初回に1点を先制されるなど接戦でした。結果的に2―1で勝利しますが、1点差という展開でした。準決勝は栗東高に7―4で勝利して決勝進出。ここでライバルの比叡山高と甲子園出場をかけての激突となるわけです。
試合は4回まで両軍無得点の展開。先攻の比叡山が5回に1点を先制すると、瀬田工高がその裏に同点に追いつく緊迫した試合でした。スコアは1―1のまま延長戦へ。そして11回裏、瀬田工高の攻撃の先頭打者は私、橘高でした。
橘高が中前安打で出塁するなど無死一、二塁とサヨナラのチャンスを迎えます。次打者には犠打のサインが出ました。ですが、打球を投手から三塁に転送されバント失敗。二塁走者の私は三塁でアウトとなり、一死一、二塁と場面が変わりました。
さらに緊迫した場面が続きましたが、次打者の9番・横江君が左越えにサヨナラ打を放ち、初めて夏の甲子園への切符を手にすることができました。












