「小さな巨人」の異名を取ったプロレスラーのグラン浜田(本名・浜田広秋)さんが15日(日本時間16日)、メキシコで亡くなった。74歳だった。「マリポーサ(スペイン語で蝶)殺法」と呼ばれた華麗なファイトで人気を博し、メキシコのプロレス「ルチャリブレ」を日本に輸入した和製ルチャドールの第一人者。浜田さんのデビュー戦の相手を務めた、藤波辰爾(71)が明かす故人の素顔とは――。

新日本の旗揚げ当初、前座の名物カードだった藤波(左)vs浜田(1972年)
新日本の旗揚げ当初、前座の名物カードだった藤波(左)vs浜田(1972年)

 浜田さんは1972年に、旗揚げ前の新日本プロレスに入門。身長167センチと小柄ながら、柔道をバックボーンとした格闘センスを生かして活躍し、リングネームを本名の浜田広秋からリトル浜田へ変更すると、75年のメキシコ修行からグラン浜田を名乗った。

 79年2月の凱旋帰国後も日本とメキシコを往復する生活を送り、現地で日本人選手をサポート。両国の橋渡し役として、ルチャリブレを日本に広める役割も担った。

 80年代からは数々の団体を渡り歩き、2000年代以降はフリーとして日本とメキシコの数々の団体に参戦していた。また、娘のソチ浜田、浜田文子も女子プロレスラーとして活躍。文子はこの日、SNSで浜田さんの死去を報告すると「最高のプロレスラーであり、最高の父でした」と父への思いを明かした。

 浜田さんのデビュー戦(72年3月16日、愛媛)の相手を務めた藤波は取材に応じ「当時は選手がいなかったから、俺とずっと40何戦も毎日同じ試合をやってね。彼自身もそれでプロレスを早く覚えたとよく言ってましたけどね」と振り返る。

 浜田さんは後にミスター・ポーゴのリングネームで活躍した故関川哲夫さんの付き添いで新日本の道場を訪れたが、故山本小鉄さんの目に留まり入門。「小鉄さんが道場で『裸になってみろ』って言ったらいい体しているし、受け身もうまい。結局、浜田の方がデビュー戦からなにから早くなっちゃってね」と経緯を明かした。

 人柄については「体は小さいんだけど豪快というか。あまり細かいことは気にせず、大ざっぱな性格だった」と懐かしむ。「車の運転も好きだったし、タバコも好きだったし、パチンコも好きだったしね。破天荒というか、小鉄さんの付け人をやりながらよく怒られてた。ちゃんこ番ほったらかしてパチンコ行ったり、釣り堀行ったり…よくみんなで笑いのネタにしてましたよ。それは浜田の人柄もあったし、当時の雰囲気もあったしね」と笑みを浮かべた。

藤波辰巳(辰爾=左)が読む専門紙をのぞき込むグラン浜田(1983年)
藤波辰巳(辰爾=左)が読む専門紙をのぞき込むグラン浜田(1983年)

 そんな浜田さんだったからこそ、自由気ままなメキシコの空気が合ったのではないかと藤波は分析する。「柴田(勝久)さんや北沢(幹之)さんもメキシコ(遠征組)だけど、浜田はすごく溶け込んでいたよね。俺もメキシコに行った時はすべて彼が面倒を見てくれて、住まいも一緒に探してくれた」と感謝を口にした。

「ごくろうさん、しかないよね。そしてありがとう。新日本の旗揚げメンバーがどんどんいなくなってしまうと、なおさら自分が現役で少しでもリングに立ちたいという気持ちになるね。ご冥福をお祈りします」

 ルチャリブレが現代の日本プロレスに与えた影響力を考えれば、小さな巨人が残した功績はあまりにも大きい。