【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(19)】1983年2月から全日本プロレスで「カブキ」の“日本凱旋”を終えて米国のダラスに戻りました。すると、マネジャーのゲーリー・ハートとプロモーターのフリッツ・フォン・エリックがギャラでケンカをしていてね。それでエリックとダラスから離れてノースカロライナの団体に参戦することにしました。
ところが、ゲーリーが報酬をごまかし、自分の懐に入れるようになっていて…。それに気付いて「お前とはやってられない」って別れて、1年ちょっとでダラスに帰りました。ゲーリーには相当な額のギャラを抜かれてましたよ。
そして、このころは日米を行き来するようになっていました。日本では年末に東京・蔵前国技館でリック・フレアーとNWA王座戦をやったりしましたね。当時の全日本プロレスは試合前にリングが出来上がっても、誰も練習していなかったんです。柔軟くらいしかしていなかった。その理由は指導できるヤツがいなかったんですよ。
だから自分が若いヤツに「上がれ」って声をかけて稽古をするようになった。それで三沢光晴や川田利明ら若手に教えるようになりました。最初はもちろん、みんな“ブサイク”でしたよ。でも受け身や組み方、ロープワークと、やり始めていくと少しずつ上達してね。中でも「あ、コイツうまいな」と思ったのはやっぱり三沢でした。
とにかく覚えが早くてなんでもこなす器用さがあって、当時から頭一つ抜けた存在でした。だから、その後に「2代目タイガーマスク」の話が出てきたときに「三沢、お前じゃないのか?」って。本人は「いやー」って言ってましたけど、最終的にそうなりましたよね。三沢には「佐山(聡=初代タイガーマスク)じゃなくて、自分のスタイルを編み出せ」って言いましたね。
一方の川田はとにかく不器用でした。だから「こいつはあまり触らない方がいいな」と思ってました。自分のスタイルでやらせた方がいいと。三沢はいろいろ教えても自分でそしゃくできたんです。だけど川田は教えすぎない方がいいと考えたんです。そんなことをしていたら、ジャイアント馬場さんから「お前、練習で若い衆を教えてくれてるからな、ギャラを100円上げてやるよ」って言われたんです。
耳を疑いました。だって1試合あたり、わずか100円ですよ? だから「は? たった100円ですか? 馬場さんのケツの穴にでも突っ込んどいてください」って言ってやったんです。そしたら馬場さんは「じゃあ500円上げてやる」と…。いや、変わらないでしょって(笑い)。
そんな中、全日本プロレスに参戦してきたのが「ジャパンプロレス」を率いる長州力でした。













