【故ジャイアント馬場さん夫人・馬場元子さんの遺言(3)】馬場元子さんは2018年4月14日に肝硬変のため亡くなった。最初の入院は17年6月9日だった。その後、亡くなるまで3つの病院と施設を移った。その経緯を改めて振り返る。

 肝臓の病気が悪化して最初に入院を勧められたのは16年12月だった。通院していた信頼するクリニックでは1錠8万円もする薬を服用していたが「症状が進んでいるので東大付属病院に入院してください」と告げられた。それまでほとんど入院の経験がなかった元子さんは、精神的に相当なショックを受けたという。同年12月初旬、全日本プロレスの和田京平名誉レフェリーが車に乗せて東大病院に行くも、元子さんは「やっぱり入院はイヤ!」と言い出し、和田氏は病院の周りを一周しただけで自宅に戻った。

 年が明けて自宅で療養生活を送る中、深刻な問題が発生する。エアコンが大嫌いだった元子さんにとって、湿気の多い日本の梅雨は耐えがたい季節だった。真夏はハワイで過ごすのが通例だったが、この病状では不可能だ。

 肝炎特有の副作用である皮膚炎も深刻になっていった。「冷風機を買ったりしましたが、皮膚から水気が出てグジュグジュになるので、もう素人では面倒が見きれなくなった。このまま自宅で夏を迎えられないと思った」と介護にあたっていた元子さんの姪・緒方理咲子氏は振り返る。

 このまま家で過ごしてもどうにもならない。一度、ケアマネジャーをつけた上で、入院する方向で考えてほしい――緒方氏がその主旨の話をすると「病院は絶対にイヤ!」と元子さんは頑として首を縦に振らなかったという。それでも根気強く説得して「どこの病院なら大丈夫ですか」と問うと「聖路加ならいいよ」と答えたという。

 そのやりとりの翌々日に、元子さんはようやく入院した。最初の診断で担当医から「持って10日か2週間かもしれません」と告げられた。それでも元子さんは驚異的な体力で持ちこたえ、現状を維持した。7月25日には練馬区の介護施設に移る。

 ここでまた新たな問題が発生した。(続く)

(運動二部・平塚雅人)