【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(17)】プロ4年目にあたる1995年、博多の街は沸きに沸いていました。現役通算868本塁打を誇る“世界の王”こと王貞治さんがダイエーの監督に就任したからです。

 根本陸夫監督が率いた前年は佐々木誠さん、村田勝喜、橋本武広さんと3対3の大型トレードで西武から秋山幸二さん、渡辺智男さん、内山智之が加入。FAで阪神から松永浩美さんが移籍してくるなどの一大補強もあって、4位ながら勝率は野村克也さんが監督だった南海時代の77年以来となる5割超え。いみじくも巨人監督は長嶋茂雄さんで、気の早いファンやメディアは「ON対決による日本シリーズを」としきりにあおっていました。

 球団側の期待を示すかのように、2月はオーストラリアのゴールドコーストでキャンプイン。宿舎はサーファーズパラダイスに面した高級ホテルで、少しばかりタクシーを走らせれば24時間営業のカジノにも行ける文字通りの“パラダイス”でした。

 しかし、チーム内での僕の立ち位置は変わりません。二軍では先発としてまあまあの投球ができても、一軍に上がれば中継ぎ専門。5月19日のロッテ戦(福岡ドーム)で3―1の9回に抑えのボビー・シグペンが追いつかれ、延長10回に7番手で1イニングを無失点に抑えた直後にサヨナラ勝ちで2年ぶりの白星は手にしましたが、入団2年目からの3シーズンは言うなれば同じパターンの繰り返しでした。

 優勝を期待されたチームは5位に沈み、14試合に登板して1勝1敗、防御率4・09と目立った成績を残せなかった僕は高知で行われていた若手主体の黒潮リーグ行き。どうにもヒザの状態が悪くて一足先に帰福したタイミングで、二軍監督代行をされていた元田昌義さんに意を決して「先発一本でやりたい」との思いを伝えました。

 僕の運命が変わったのは、その直後です。福岡市東区西戸崎にあった合宿所に併設された室内練習場でリハビリ組として練習していると、上田卓三編成部長に呼び出されました。そう、トレード通告です。相手はヤクルト。外野手の佐藤真一さんとともに柳田聖人(しかと)、河野亮との2対2の交換トレードでした。

 今だから明かせる笑い話ですが、実はダイエーに出戻りとなるシカトから事前にトレードの話は聞かされていました。なんでも一部メディアに飛ばし記事が出ていたようで「田畑さん、トレードでヤクルトですよ」「誰と?」「僕と」というコントのようなやりとりをしていたのです。

 移籍先となるヤクルトは95年の日本一チーム。本命は佐藤さんで僕はオマケだったような話も聞きましたが、強いチームから戦力として期待されたのは名誉なことです。こうして僕のプロ野球人生は第2幕へと突入しました。