フィギュアスケート男子で五輪2連覇を果たし、プロに転向した羽生結弦(28)が10日、自ら座長を務めるアイスショー「羽生結弦 notte stellata」(宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ)を行った。羽生自身も被災した2011年3月11日に発生した東日本大震災から12年。当時の状況を知る関係者たちが明かす羽生アイスショーの意義とは――。
プロ転向後、初めて地元・宮城で開催されたアイスショー。冒頭に羽生は「3月11日、僕は満天の星空を見て希望を感じました。一つひとつのプログラムが満天の星空のように、輝く星となれる思いを込めて滑らせていただきます」と話した。
まずはイタリア語で「満天の星」を意味するタイトルナンバー「notte stellata」を披露すると、会場の雰囲気は最高潮に。体操男子で個人総合五輪2連覇の内村航平氏との豪華共演では、スタンディングオベーションが沸き起こるなど、約2時間にわたって満員の観客を魅了した。
あのときには到底想像できないショーだった。東日本を襲った大災害は、人々の日常を一瞬で奪った。当会場には、連日多くの死者が運ばれ、遺体安置所として使用された。今も地元の人たちにとって、当会場は遺体安置所だったというイメージが根強い。羽生もわかっていることだが、一番怖いのは時間とともに風化が進むことだ。
当時、安置所の案内役を務めた東北大の村松淳司教授は「震災は忘れないことが一番。羽生選手はみんなに来てもらうのが重要だと思っているのでは。会場が遺体安置所だったというのが、やっぱり一番強力なメッセージですからね」と思いを巡らせた。
東北高1年だった羽生は、練習拠点だったアイスリンク仙台で被災。リンクは閉鎖となり、自宅は全壊判定を受けた。避難所生活を余儀なくされ、多くの被災者とともに絶望の淵へ立たされた。そんな人たちのために、これまで多くのアスリートが被災地を訪問。手を差し伸べてきた一方で、直接被災を経験したアスリートはごくわずか。だからこそ伝えられるメッセージがある。
利府町の熊谷大町長は「羽生選手は被災者だったと同時に、被災者を励ますシンボル的な存在だった」。地元関係者によると、羽生も震災への知見を深め、自らができる役割を模索してきたという。
当会場にとって、フィギュアスケートは切っても切れない関係。遺体安置所となったことで解体論が噴出していた中、11年9月に実施されたアイスショー「ディズニー・オン・アイス」が光となった。熊谷町長は「あのアイスショーは復興に向けた象徴だった」と振り返る。さらに当会場で行われた12年NHK杯で、羽生は2度目の出場で初優勝を飾った。多くの人が悲しみ暮れた会場は、スケートを通じて新たな役割を担ってきた。
そして再び戻ってきたことには大きな意味がある。羽生は「人生のちょっとした苦しいところでこの『notte stellata』のプログラム、星みたいなものがちょっとでも希望を届けるものになってたらなということは思いました」。あの日の傷が癒えることはない。それでも〝羽生結弦〟は、一番星として希望の光を届け続ける。











