【デンジャラスクイーンの真実#10】1985年5月の八丈島合宿中のことです。同期の佐藤真紀が「うー! うー!」とうなる声が聞こえて、見るとリングの下でゴロゴロ転がっていたのです。そばに寄って押さえたけど、すぐにグッタリしてしまい「救急車を呼べ!」って叫び声が聞こえました。

談笑する北斗(後列左)たち。後列右は堀田(85年7月)
談笑する北斗(後列左)たち。後列右は堀田(85年7月)

 真紀の顔はどんどん蒼白になっていく。私と仲前芽久美はビックリし過ぎて吐いてしまいました。おそらく頭を打っていたんでしょう。今の時代では「仕方ない」という言葉を言ってはいけないのかもしれません。ですが、入門したころの私には、前日の真紀の様子から、危険な状態だったというのはわかりませんでした。

 真紀はヘリコプターで運ばれ、合宿も中止。一人ひとり警察に呼ばれて調書を取られました。「そこに誰がいた?」「きつい何かをやってないか?」とか6~7時間、聞かれました。一つ言えるのは、本当にそんなことはしていませんでした。

 5月18日の大会。その日は具合が悪く、赤バスというヒール軍団のバスで休んでいました。そこにボブ矢沢レフェリーが来て「さっきみんなに話してきたんだけど、真紀が亡くなった」と知らされました。「ええっ」って言った私は大号泣で、その後のことは覚えていません。不思議ですよね。今でも真紀の声は思い出せるのに。

 それから28年後。テレビで「同期が亡くなったことがあって、後悔している」と話したことがありました。名前を出さず濁す言い方で。あの時に知識があれば、前の日にイビキをかいていた真紀の姿を見て「様子がおかしい」と先輩にも会社にも伝えることができました。だから、私には後悔になるんです。

 その後、事務所に1通の手紙がきました。真紀のお母さんでした。「北斗さんが話してくれたこと、すぐに分かりました。覚えていてくれてありがとう」。真紀が亡くなった当時、お墓ができる前にご家族が引っ越してしまい、音信不通だったのです。堀田祐美子と「真紀のお墓はどこにあるんだろう」と話していたのですが、全日本女子プロレスもなくなり、連絡の取りようがありませんでした。

 お母さんに手紙を返してやりとりしました。それから同期を集めて、毎年5月18日は真紀のお墓に行くようになったのです。同期には、プロになれなかった人が2人います。連絡先を知らなかったうちの一人からも「いつも(北斗の)ブログを見てるよ。真紀のお墓に行っているのね」って手紙がきたので「一緒に行こう」と誘ったら、その子は車いすでした。

 脳に腫瘍があって「みんなのこと忘れる前に行ける限り毎年行きたい」と。ここ数年はコロナ禍でお墓に行けませんでしたが、今年は集まれますね。佐藤真紀の存在が私たち昭和60年組をつなげてくれています。