【デンジャラスクイーンの真実#6】1984年。私は全日本女子プロレスの「練習生制度」を利用して練習生になりました。そこに通えば女子プロレスラーになれると思っていた人がたくさんいたのですが、結局は全女の金儲けです。練習といっても、見てもらえるというより、自分たちで体を動かした感じです。今でいうスポーツジムですね。
当時はクラッシュギャルズ(※)がビックリするくらい人気で女子レスラーになりたい子がたくさんいました。同じ夢を持った子がこんなにいるんだって、ビックリしましたよ。前回のオーディションに落ち、その前の年も落ちたという人もいて。だから予備校みたいな感じなんですけど、みんないろいろな情報を持っているんです。
その中で「高校に通っていたら落とされるよ」って話を聞きました。これ、実は本当だったんです。オーディションの時にものになるか分からないから「高校に通った方がいい」って言われるんです。受かっても夜逃げする人が多いし、10人合格しても1~2人しか残らない世界なので。「高校出てから来れば」と言われても、そのときは18歳。18歳は“お年寄り”だから受からないんです。15~16歳くらいの子が欲しいわけですから。
だから「高校を辞めてきました」という覚悟を見せなきゃいけませんでした。実際に辞めるとなったとき、父方のおじいさんに殴られました。「バカ言ってんじゃない。あんなのストリップだろ! ブラジャーとパンツ同然だ!」って。女子プロレスはそういう見られ方だったんです。
今では信じられないかもしれませんが、うちは大きな農家だったので高校を出れば、他の大きな農家が私のことを欲しがるんです。政略結婚じゃないですけど、お見合いの話がきて安泰な生活が待っていました。農家は食いっぱぐれがないし、幸せな人生を送ってほしいという気持ちだったと思いますが、祖父がそんなでは母親も承諾書を書けません。でも、最終的には母親が書いてくれたんですけどね。
三郷のセブン―イレブンで時給500円のアルバイトをしながら目黒の道場に通いました。85年1月のオーディションに応募したのですけど、往復ハガキの返信がない。つまり、書類審査を通ったという通知が来ないということです。
それで、練習生のコーチをしていた柳みゆきさんに「ハガキが来ないんです」と連絡したら「今までに見たことがない応募数で漏れている人がたくさんいるから会場においで!」って。後から知ったんですが、柳さんは私のことを「あれはいい。スターになるから取った方がいい」と言ってくれていたみたいです。
年が明けた85年1月15日、私はオーディション会場となった河田町(東京・新宿区)のフジテレビに行ったのですが…。
※ 日本中を熱狂させたライオネス飛鳥と長与千種のコンビ