【デンジャラスクイーンの真実#5】私の記憶が定かじゃないのでゴメンなさい。でも、あれは確かに小林邦昭さんに「女子プロレスラーになったら?」と言われた1984年7月の夜だったと思います。
新日本プロレスの道場があった等々力から埼玉の自宅に帰ると、テレビで全日本女子プロレスが放送していました。84年にデビューする新人のダイジェストをやっていて、後の1年先輩になる永堀一恵さんや斉藤真知子(後のコンドル斉藤)さんたちがドロップキックや投げているシーンが数秒ずつ映りました。
見た瞬間に「これ、絶対に私の方が強いな」って思ったんです。それから月日がたち、やってみようってなりました。
当時は15、16歳になる子は「将来何になりたいのか?」って聞かれ、それによって進路が決まりましたよね。今は大学も自分の将来なりたいものへの準備期間になっていますが、昔は高校が将来の準備期間でした。
私はソフトボールの推薦で東京の学校に行きましたが「将来何になりたいのか?」と言われても正直、15年しか生きていないわけじゃないですか。わずか数年前の作文には「ケーキ屋さん」「花屋さん」「お嫁さん」って書いたばかりなのに3年後に進路を委ねるのは間違いだと、親になった今なら思います。
今のようにネットもなく、私たちは目で見たものしか分からない時代なのに、聞かれたら答えなきゃいけません。そこで「ソフトボールの選手か体育の先生」と思っていました。将来的にはソフトボールの強い実業団に入るか、体育の先生をやるかしかなくて、それしか答えようがなくて。でも、特別なりたいわけではなかったのです。
一方で、当時からソフトボールでは食べていけないと思っていました。明確な夢がなく、何かしら答えなきゃいけない中での夢でした。だから、女子プロレスを見て「私の方が強いんじゃないかな?」と思った瞬間、やろうかな、やってみようかな、やろうに変わりました。それがきっかけになりましたね。
女子プロレスラーになろうと思った私のために、プロレスが大好きな同級生のえっちゃんもいろいろ調べてくれました。全日本女子プロレスは毎年1月にオーディションがあって、まずはそこに合格しないといけない。オーディションを通過した人は寮に入り、4月とか5月にあるプロテストを合格しなくちゃいけない。私が小林さんから「女子プロレスラーになったら?」と言われたのが84年7月なので、半年近く待たなきゃいけませんでした。
その間、当時の全女は「練習生制度」というのがあって、そこに通うことになりました。入会金が3000円で、1回500円を払うと誰でも目黒の道場で練習に参加できるものだったんですが、そこで衝撃的な光景を目にしたんです。