【デンジャラスクイーンの真実#2】1967年7月13日。私は埼玉県北葛飾郡の吉川町で生まれました。今の吉川市です。農家の本家で、父のところに母が嫁いできました。私は3姉妹の次女。ただ、跡継ぎが欲しい中で生まれた私は、姉に続き女の子だったから、がっかりだったみたいです。

 それを知ったのが小学校のときでした。学校の宿題で「自分の名前がついた理由を調べなさい」っていうのがあって、母に「なんで私は宇野久子っていう名前になったの?」って聞きました。

 そうしたら「誰も喜んでくれなかったから、お母ちゃんが名前をつけたんだよ」って。「えっ? そんなに簡単なんだ」って思いましたよ。女の子が生まれてしまった母は家に帰ることができず、自分の実家に帰ることになったのです。母の同級生に校長先生の娘がいたのですが、彼女はスポーツ万能、明るい人で「チャコちゃん、チャコちゃん」って呼ばれみんなの人気者だったとのこと。その人の名前をつけようと「久子」になったという説明でした。

父、姉(右)と撮影した幼少期の一コマ(健介オフィス提供)
父、姉(右)と撮影した幼少期の一コマ(健介オフィス提供)

 誰も私の誕生を喜んでくれなかったというショックはあったとしても、母親の願いってあるじゃないですか。私に「人気者になってほしい」という願いを込めてつけたんだろうなって。その話を聞いて「いつかすごい人間になろう」って幼いながら思いました。

 対照的に姉はおとなしくて、頭もよくてスポーツもできました。姉はみんなに「いい子」と言われたけど、私はおてんば。でも、母方の祖父は平等に扱ってくれました。いつも「チャコはバカでもイタズラでもいいんだよ。でっかくなったら頭のいい人間を使える人間になれって」って言ってくれたのです。

 その時は意味がわかりませんでした。それがわかったのは、大人になってから。人を使える人間になれって、経営者になれ社長になれってことではなく、自分ができないところを補ってくれる人たちが集まってくれれば一つ柱ができるって考えました。

 私は今、化粧品を開発していて、「nopa」っていう自分の肌の色に変わるファンデーションを昨年発売しました。私にはアイデアもあるし、こういうのをつくりたいというのがあります。

 でも、形にできる技術がありません。じゃあ、形にするのはそっちの人を集めればいいって考えるようになりました。プロレスにいた時は、自分の稼ぐお金は自分だけ、人を使ったら損みたいに考える人が多いですよね。今は違う世界に来て、私も稼ぐけど、私にない技術を持っている人を使えばいいと考えるようになりました。例えばアイデアがある私が10万円稼いで、技術を持っている人が10万円稼げば、20万円稼げる。それが3人になれば30万円。その時に、当時祖父が言った言葉が分かりました。

 ちょっと話がそれましたが、次は私の青春時代を振り返ります。