大日本プロレスのグレート小鹿会長(80)が、1日に心不全で死去した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)との思い出を語った。1962年に日本プロレスに入門した小鹿にとって、プロレスラー「グレート小鹿」を形成してくれたのが猪木さんだった。今でも「天丼」「タンメン」を食べると、当時の記憶が鮮明によみがえる――。

 小鹿は13日に都内で営まれた猪木さんの通夜に参列。「猪木さんの顔を見たんだけど『疲れたから寝るぞ』っていう声が聞こえてきてさ。『お疲れさんです』と声をかけたんだ」と神妙な面持ちで振り返った。

 猪木さんとの思い出で、真っ先に思い浮かぶのが日本プロレス時代だ。1962年11月に20歳の小鹿が入門したとき、19歳の猪木さんは2年先輩の兄弟子となった。当時、師匠の力道山は米国に滞在することが多く、道場での練習はもっぱら猪木さんたちが担当した。

「ピーンと張り詰めた空気の中でさあ、『オラ、来い! 四つん這いになれ!』って言われ、猪木さんに上に乗られて。アゴとか首とか足を決められるんだよ。1秒間に3~4回はギブアップした。それが2時間くらいだった。毎日、猪木さんにやられたなあ」

 練習では厳しかったが、優しい先輩だった。ある日の練習後、道場の忘れ物を食事中の猪木さんに届けると「お前も食え」と天丼とタンメンをごちそうしてくれた。小鹿は「初めて食べた味だったんだ。今でも食べると、あの時のおいしさ、懐かしさがこみ上げてくるんだよ」と語る。

 その後、63年5月にデビュー戦を迎えた小鹿は米国マットでも活躍。〝仮面貴族〟ミル・マスカラスと抗争を繰り広げた。70年には、同じタイミングで猪木さんが米国遠征に訪れ、ロサンゼルスの日本料理店で久々の再会。午後8時から翌朝5時まで2人で飲み明かした。

 その席で猪木さんは「なあ小鹿、日本プロレスには大男がそろっているのに、ビル一つ建てることができない。俺たちに金が回ってこない。日本に帰ったら、改革しなきゃいけないな」と訴えてきたという。

 当時の日プロは経営陣が腐敗。猪木さんは信頼する小鹿に本音を打ち明けたのだ。だが、翌年に猪木さんはクーデターを企てたとされ、日プロを追放された。小鹿は日本プロレス崩壊後の73年に全日本プロレスに移籍。新日本プロレスを旗揚げした猪木さんとは別々の道を歩むことになった。

 それでも、今でも感謝の気持ちは忘れない。「練習しないと強くなれないというのが頭にあったけど、誰よりも練習する猪木さんがまぶしかった。若いころのグレート小鹿の基礎を教えてくれたのが猪木さんでした」。天国に旅立った先輩への思いを胸に、80歳の小鹿はリングに立ち続ける。