【楊枝秀基のワッショイ!スポーツ見聞録】「今日は報告することがあって来たよ」
2015年、オリックスを自由契約となりヤクルト入団が決まった直後、坂口智隆が神戸・三宮で私が経営していたスポーツバー「42」を訪ねてくれた。
坂口とは近鉄、オリックス時代から担当記者として交流があり、神戸市内の母校も同じ地区。自宅も近いということもあり、フリーランスになってからもご縁が続いていた。
坂口は店内の席につくと「まだ発表してないから内緒やけど、背番号も決めてきたよ。42番やねん」とニッコリ笑った。
続けて「おばあちゃんに『野球選手は誰にでもできない仕事。だから、人とは違う選択をしなさい』って言われてたしね。日本では『死に番』と言われて嫌われる数字やけど、あえて42番を選んだんよ。好きな数字やし、楊枝さんの店の屋号やし。ジャッキー・ロビンソン(有色人種初の大リーガーで、その背番号42はMLB全球団永久欠番)のことも教えてくれたやん。俺、グッチー・ロビンソン的な(笑い)」
その場は笑顔で取り繕ったが、カウンターの陰に隠れて泣いてしまった。店主と客でもあり、記者と選手でもある。一定の距離を取ることを意識はしていた。だが、11歳年下の稀代のバットマンが弟のように思えて仕方がなかった。
そんな坂口が現役を引退することが29にヤクルト球団から発表された。これで近鉄バファローズ出身のNPB選手が誰もいなくなった。
「僕をプロ野球選手にしてくれたのは近鉄バファローズ。入り口を作ってくれた球団のことを忘れるはずがない。背負わなあかんし責任あるよね」と話していたが、ついに終わる時がきた。
2004年1月、藤井寺球場で坂口と初めて対面した。神戸国際大付属高からドラ1入団し2年目になったばかり。たまたまノッカー役が不在で「野球経験者やったら打ってもらえます?」と言われ大役を買ってでた。どんなに打球を左右に振っても追いついてしまう俊足は驚異だった。
球団合併を経て近鉄は消滅。坂口はオリックスに移籍した。ほどなくレギュラーを獲得し3割打者となり、ゴールデン・グラブ賞も4度受賞。11年には175安打で最多安打のタイトルを獲得した。16年からヤクルトへ移籍しプロ通算1525安打を記録した。
近年は故障も重なり本来の力を発揮できずにいた。特に19年の左手親指骨折のダメージは大きく「もう以前の感覚では打てないから、現状でのベストを模索する」と粘り強く練習を重ねた。
だが、限界だったのだろう。9月に入り連絡を取った。「長く球界に貢献したので辞める時は自分で『引退します』って会見を開いてもらわなあかんで」とメッセージを送った。
すると「最後が来るまで、野球うまくなるために頑張りますよ」と返事が返ってきた。
7月7日で38歳。20年にわたり3球団でNPBの発展に貢献してきた最後の猛牛戦士。しばらくゆっくり体を休めてください。そしていつかまた、故郷の神戸で朝まで野球を語ろう。
☆ようじ・ひでき 1973年生まれ。神戸市出身。関西学院大卒。98年から「デイリースポーツ」で巨人、ヤクルト、西武、近鉄、阪神、オリックスと番記者を歴任。2013年からフリー。著書は「阪神タイガースのすべらない話」(フォレスト出版)。21年4月にユーチューブ「楊枝秀基のYO―チャンネル!」を開設。












