【多事蹴論(55)】J最強チームはなぜMF中田英寿争奪戦に参加しなかったのか――。長年にわたって日本代表のエースとして君臨した中田は山梨・韮崎高から1995年に平塚(現湘南)入りした。97年には20歳ながらA代表に初招集され、非凡な才能を披露。日本が初出場した98年フランスW杯では大黒柱として世界を相手に好パフォーマンスを披露するなど、日本サッカー界屈指のスター選手だった。

 Jリーグ入りに向けては全12クラブ(当時)中11クラブからオファーを受けたいわゆる“ドラフト1位”選手。いくつかのJチームで練習に参加し、94年にJリーグに昇格した平塚に入団することを決断した。しかし、その舞台裏で唯一、中田の獲得に動かなかったのがカズことFW三浦知良やMFラモス瑠偉、FW武田修宏らを擁し、Jリーグを席巻していたスター軍団のV川崎(現J2東京V)だった。

 V川崎のスーパーバイザーを務めていた元日本代表MFの小見幸隆氏は「あのとき、ウチが中田に声をかけていたら(V川崎に)来ていたかもしれないね。ラモスにあこがれていたし、首都圏のチームが希望だったと聞いていたから」と振り返る。小見氏は93年に日本で開催されたU―17世界選手権(現U―17W杯)で初のベスト8進出を果たした同日本代表でコーチ(監督は長崎・国見高の小嶺忠敏氏)を務め、同代表メンバーだった中田とも親交が深かった。それだけに獲得の可能性は高かったという。

 それでもV川崎は中田に入団オファーを出さなかった。小見氏は「当時のチームはまだラモスが健在だったし、ビスマルクに北沢(豪)も全盛期だった。選手層もかなり厚かったし、仮に中田が入ったとしても普通にやれたと思うけど、上が詰まっていたし、あんまり出番はなかったんじゃないかな。彼もプロになって早くから試合に出たいと思っていただろうし(中田の成長を)邪魔したくないというか、その辺も考慮し、クラブとして判断した」と説明した。

 実際、V川崎は93、94年とJリーグを連覇し、黄金時代を構築。中田とともにU―17世界選手権を戦った才能あふれる若手選手が多数在籍しており、チームに入り込む隙間はなかった。小見氏は「それで良かったと思うよ。中田は平塚に行って試合にも使ってもらえたし、彼を中心とするスタイルでやらせてもらえたから。ヴェルディに来ていたらどうなっていたかな。毎日、ラモスに怒鳴られていたんじゃないか」という。

 中田はフランスW杯後にイタリア1部ペルージャに移籍。2000年には同1部ローマ入りしてリーグ制覇に貢献するなど、その名を世界に知らしめたが、V川崎の“英断”が中田にとって大きなターニングポイントになったのは間違いない。(敬称略)