【多事蹴論(50)】ネルシーニョ監督はなぜ日本代表監督になれなかったのか――。1990年にブラジル1部コリンチャンスを指揮してブラジル全国選手権を制覇するなど、王国でも「名将」と呼ばれ始めていた中、94年7月、松木安太郎監督率いるV川崎(現東京V)のコーチとして招聘された。

 すると卓越した手腕でV川崎を2年連続の年間王者に導くなど、チームをまとめ上げ、95年秋には日本代表の新監督候補に浮上。日本サッカー協会の副会長でもあった川淵三郎チェアマンは「(強化委員長の)加藤久から協会上層部に『(日本代表の加茂周)監督を交代させたい』という話が上がってきた。後任監督として挙がったのが、V川崎のネルシーニョだった」という。

 特にカズことFW三浦知良やMFラモス瑠偉ら個性派集団を結束させたリーダーシップと戦術面が高く評価され、95年11月には日本サッカー協会の幹部会も監督交代を承認。本格的な交渉がスタートし、加茂監督の更迭とネルシーニョ監督の就任が確実となった。ところが、事態は急変する。外遊先から帰国した協会の長沼健会長が突然、方針転換し「加茂続投」を打ち出した。川淵氏は「どうなってんのと…。でも長沼会長が言うんだからね」と戸惑いを隠せなかったという。

 その一方で、協会側はネルシーニョ監督と合意に達していなかった契約交渉で条件面に大きな隔たりがあることを理由に加茂監督を続投させることになったと説明。ただネルシーニョ側は「交渉の途中なのに一方的だった。話し合いにもならなかったし、作為的なものを感じた」とし、就任を阻止するため意図的な交渉だったと指摘するなど、ドロ沼化した。

 そんな中、同年11月22日、加茂監督続投の記者会見が行われた。川淵氏は「会見は直前までバタバタしていた。(退任後に加茂氏が監督に就任するはずだった)横浜Fの長谷川社長にボクが電話を入れ、加茂続投の最終的な了承を取った。それで記者会見に出て行ったんだけど、殺伐とした雰囲気だったな。私自身も直前までネルシーニョでいくと思っていたから」と振り返る。

 そして契約交渉を途中で打ち切られたネルシーニョ監督も同日に記者会見し、協会側の姿勢を徹底糾弾。高額な年俸を吹っ掛けたとの見方に猛反論し「協会幹部は腐ったミカンだ」と激怒するなど日本サッカー史に残る大騒動だった。

 ネルシーニョ監督は96年4月、成績不振でV川崎監督を退任。その後も神戸や名古屋を指揮し、柏の監督として2010年にJ2優勝。翌11年には昇格したばかりでJ1優勝を果たし、再び代表監督の待望論が出始めていた。本紙の直撃に名将は「協会から代表監督のオファーが来たら? 話を聞くよ。わだかまり? もうないよ。昔のことだ」と語っていた。
 (敬称略)