【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(21)】仰木彬監督ってほとんど話したことないんですよ(笑い)。僕を指名してくれた監督で、1992年まで見ていただいた。教わったというより、ほっといてくれた(笑い)。先発とか他の人は言われていたかもしれないけど、怒られたことも注意された覚えもないんです。練習してても「調子どうや」くらいで、ほんと何も言われなくて、ほっといてくれたことに感謝だし、使ってくれたことに感謝ですよ。もともと1年目から権藤博投手コーチが監督に僕のことを言ってくれて、期待もしてくれたんだと思います。新聞を通じて「稲尾2世や」と言ってくれたりしてうれしかったですよ。

 覚えてるのは92年、抑えで最優秀救援のタイトルに加え、最優秀防御率も狙える状況になった。残り2試合で3点以内に抑えれば規定投球回に到達できる。その時に練習中、ベンチの裏に呼ばれて「どうするんや、先発するか」と言われて「やれるならやりたいです」「取れるんならいけよ。あとは投手コーチと話してくれ」と…。監督とちゃんと話したのってそれくらいだったかもしれません。

 92年オフに退任されるんですけど、後年にオリックスで再会することにもなりました。2004年オフ、戦力外通告を受けながらもトライアウトを目指して練習していた時、近鉄と合併してまたオリックスの監督になった仰木さんに呼ばれ「もういいやろ。やめてコーチやれ。もう選手はいいから後輩を教えてやれ」って。その時の会話も久しぶりだったですよねえ。

 権藤さんも最初の投手コーチですけど、1年だけだし、ほとんど話した覚えがない(笑い)。ブルペンでボール球ばかり投げてた時に「何してんの。真ん中ほうれ」と言うだけ。こちらもコミュニケーションはなしです。僕はフォームを触るな、ということになっていたんですけど、みんな教えてもらっているのに僕だけ何も言われない。1年目で高校から来たばかりだし「教えてくれないかなあ」なんて思っていました。

 プロは自分で考えてやるべきなんだな、と思ったのはもっとあとになってからです。そもそも教えすぎたらダメ、というのが仰木さんの方針だったでしょう。いい投球したら「ナイスピッチング」で、翌日は「状態どうや」くらいだからホメられることもないですよ。

 そんな監督が目の色を変えたのが西武戦でした。僕がいたころは1990年からリーグ5連覇、3年連続日本一の黄金期ですから、西武を叩かないことには優勝はできない。特に仰木さん、中西太コーチは88年に「10・19」で悔しい思いをしているのでなおさら「打倒・西武」の思いが強かったでしょう。

 西武に勝つと球団から出る報奨金が30万円から100万円にハネ上がる。3連勝ならチームに300万円入るわけですから選手も燃えます。監督はマスコミを使って「西武包囲網」を呼びかけて…。

 ☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。